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トップ > 佐賀 新光証券 > 佐賀 新光証券 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月3日 10時)

「プロジェクトX」。事実の加工。「複数の物語」の存在。

池田先生は、プロジェクトXで讃美したものが、本四連絡橋や、青函トンネルであり、それらが、固有地方における「局所最適」であり、日本全体にしてみれば、「全体最適」ではない。と、説く。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/0ae22852a1f5c0507e18e93c960480c9

私は…。




私は、プロジェクトXのWikiを閲覧する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88X%E3%80%9C%E6%8C%91%E6%88%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%9C

そこで、万引き者の過剰な「物語づくり」の典型を見る。

ドキュメンタリーは、制作者の良心によって成り立っている。だが、編集作業において、制作者の良心にしたがっていたら、作品などつくれない。たとえば、移動カット、食事カットなど、すべてを撮影できるはずもなく、時系列を度外視して、本編に使うのが常套手段である。
万引き者は、それをもう一歩踏み込んで、シナリオの部分から、捏造・単純化してしまったようだ。その事実を知らされることもなく、NHKは再放送をつづけ、DVDを販売する。

インターネットにおける相対化作用により、NHKが「捏造した物語」が専横する時代は衰えていくだろう。

そして、今も、同じナレーターを使った番組がある。脳学者という、料理愛好家にもにた肩書きをもつ人物によって、進行されているが、これも「過剰な物語」であることが暴露されていく…。



俵万智氏は、から揚げをサラダにして、ベストセラー「サラダ記念日」を成立させた。
短歌はドキュメンタリーではない。俵氏の創作が画期的だったのは、から揚げをサラダにしたこと。そういう捏造が、白樺派的な芸術思潮とはかけ離れていたため、大ヒットにつながったのだろう。

中学校の教科書には、から揚げがサラダに止揚することで、創作が成立したとのエピソードが紹介されている。ベストセラーだった当時、サラダがから揚げだったことを俵氏は明らかにしていない。
私たちは騙されて、消費させられていたのだ。

作者:スポンタ

更新日:2008年12月3日 9時21分

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禁煙指導室で喫煙を容認した高校の立場。

法律は、その存在さえ認めない社会をつくってしまう。

それでいいのだろうか。

*

高校生のすべてが喫煙をしない。または、喫煙をしている高校生はすべて法的処置を受けている。そんなことはありえない。

私たちは、賭博禁止の日本で、パチンコ景品交換所に行き、売春防止の日本でソープに行き、憲法第九条の日本で、自衛隊の存在を許容する。

それでいいとも、悪いとも、言いがたいが、それが現実である。




私立高校で、喫煙を容認したということで、学校が書類送検されたという。しかし、このような問題が報じられることに問題がある。

法律は平等に国民に課せられる。それが法律の大原則。しかし、それは平時に限定される。戦時や災害時においては個人の権利は制限される。
では、平時とは何か。

戦争だけが非常時ではない。



この学校では、近所で山火事やボヤが発生し、生徒の喫煙が問題化した。喫煙者をリストアップするには、喫煙者に喫煙指導室における喫煙を限定的に認め、継続的に喫煙を指導する。そういうことをしていたらしい。

生徒が隠れて喫煙することで、山火事が起こり、学校が火災になる危険がある。これは平時ではない。

喫煙者を退学させればいいという選択肢も、学校存続に関わるし、学校の社会的意義を考えれば、この種の学校が日本に不可欠なことは明らかだ。



ことはトリアージと一緒。緊急事態において、何の優先順位を上にするか。

今回も、生徒の更生のことを考えれば、喫煙問題は二の次であっていい。

今回の景気対策も、中小企業のことを考えれば、首相が麻生氏でも、小沢氏でもどっちでもいい。



黒澤明の映画「七人の侍」には、「首を斬られようとしているのに、ヒゲを気にしてどうする」というセリフがある。

「平等」という概念が、如何に現実にそぐわないか。私たち日本人はそろそろ気づいていい。否、国民の殆どは気づいているが、マスコミだけが、金科玉条のごとく、手放さない。




パチンコもソープも自衛隊も、国家が容認している事実である。

この小さな高校の方針を国家が容認するとは思われない。そこにこそ、大きな不平等がある。

作者:スポンタ

更新日:2008年12月2日 9時48分

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小説先祖供養_11

第2章の最後です。

 三沢の墓は福井県敦賀市にある。東京に暮らしていると、墓参りのためだけにわざわざ福井まで行くという発想はなかなか起きない。両親が郷里を離れてから十年が経つ。その間、私は三沢家の墓参りをしていなかった。その年の春の彼岸に妻と義母に連れられて刈谷家の墓参りに行った。
 刈谷家の墓は大森の浄縁寺にある。私はお彼岸の時期に父や母の郷里にいたことはなかったから、お彼岸の墓参りは生まれて初めての経験だった。私は妻の父の遺骨が入っているお墓に神妙に手を合わせ、線香を手向けた。
「この人が新しい息子だよ」
 義母はお墓に話しかける。
 義母はけっして信心深い方ではなかったが、先祖供養だけはきちんと行いたいという希望をいつも持っていたし、それを実践していた。さらに六年前に夫を亡くしてからは、その思いが一層強くなったようだ。
「お墓参りもちゃんとやらないといけないですね」
 帰りの車の中でなんとはなしに義母に語りかけた。その時、なぜそういう気持ちになったのか、その理由を考えてもみなかった。だが、妻が義母のために三沢家の墓参りをしようと言い出した今、私は初めて明確な目的を持って墓参りをしようと決心した。
 義母の言葉を実行することが、死の床にいるかもしれない義母に対して、今私ができる唯一のこと。このまま何もせぬまま義母がこの世を去れば、私には後悔だけが残る。
 次の日の朝、私は会社を休み、妻とともに新幹線に乗った。

作者:スポンタ

更新日:2008年12月2日 7時54分

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更新日:2008年12月2日 7時54分

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局所最適な人達は、全体最適なために協力しない。(ネットワーク外部性)

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/29af9e4e187816c3cafd0384f52122e0

池田先生は、[中級経済学事典] ネットワーク外部性。としてブログ記事をあげる。経済学である。だが、それはコミュニケーション学でもある。

だが、私はそこから、「局所最適な人達が自分最適なことを目指す限り、全体最適は達成されない」ことを読み取る。




それは、権力を持つ人・エスタブリッシュが、「自分最適な世界」を目論む限り、「全体最適な時代」は訪れないこと。さらにいえば、権力を持たない人・非エスタブリッシュな人は、「特定人にとって最適な世界」にアジャストするために、自分を最適化する。
そのようなムーブメントによって、「局所最適化された世界」が温存・継続・継承されていく。



ならば、「全体最適化」することで、「自分最適な世界」をつくる構造を生み出さなければならぬ。

それが、ネット者たちが現実に提題していることである。


そして、それは、大企業が繁栄していくためには「大衆商品の最大最適化」は、不可欠であり、そのような方向に向かっていかなければ、この国の繁栄はないとも…。



アグネス・チャンがやっていることも、社会の「自分最適化」であって、「全体最適化」ではない。

島田紳助氏が、カンボジアに学校を作ることも、「自分最適化」の所作でしかなく、「全体最適化」ではない。だが、「社会的な贖罪」としては意味がある。それを島田氏は確信していて、番組の中でも、「昔、やんちゃした人達はこういうことをしたい」と、わざと自虐してみせる。…彼は賢人である。

表面的には、島田氏とアグネス氏は手をとりあっているように見えるが、島田氏の思慮は深く、アクネス氏を許し、諭しているとも見える。



「全体最適化」が「個人最適化」に通じる社会。
「個人最適化」で「全体最適化」が達成される社会。

それがインターネットで実現できる。

作者:スポンタ

更新日:2008年12月1日 10時51分

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中学で、2進数と集合を習った私たちの世代。

昭和46年から54年までの9年間だけ、中学1年の1学期に「集合論」「2進数」を教えられた。

私は、その教育を受けた世代である。



2進数はITに不可欠。
これを知らないと、ビット・バイトが理解できない。256の意味も…。
21世紀の今になって、当時の文部省が2進数と集合論を教えたかが分かる。

*

そして、集合。当時、マッピング・y=f(x)だけでは捉えきれない現実に、社会が向き合っていたに違いない。そして、49歳の私は今、集合論の大切さに気づく。

集合とは定義できぬものを定義できぬままに処理・分析するやり方だろう。不確定性理論などがでてくるとともに、ニュートン、アインシュタインの論理にほころびが見えてきた時代。集合論を中学生に教えたがった教育者・学者たちの思いは容易にイメージできる。



世界は、写像(マッピング)と集合(セット)によってできている。

圏と関手を縦横に駆使する最先端の数学を除けば、現代数学のほとんどが、集合と写像の言葉で書かれているといっても良いほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E5%83%8F




wikiでは、そういうことなのだそうだ。
一般語としてマッピングを解釈すると専門家に起こられそうだが、マッピングはマッピングだろう。素朴な定義をすれば、つまりは座標軸を定めて、個と関連づける。つーこと。
ま、HTMLな感じかなぁ…。



ほんでもって、もうひとつが集合。

集合は、集合論のみならず現代数学全体における最も基本的な概念の一つであり、現代数学のほとんどが集合と写像の言葉で書かれていると言ってよい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%90%88


そのWikiの下のほうには、次のようにある。

集合論以前の数学は、数であるとか方程式であるとかあらかじめ与えられた数学的対象の性質を研究する、という性格が強いものだった。集合論以降は問題にしている数学的な現象をよく反映するような「構造」を積極的に記号論理によって定義し、その構造を持つ集合について何がいえるかを調べる。という考え方が優勢になった。とくに20世紀に入ってからの抽象代数学や位相空間論では様々な新しい数学的対象が集合の道具立てを用いて積極的に構成され、研究された。このパラダイムはニコラ・ブルバキによる「数学原論」においてその頂点に達したと見なされている。

一方で、さまざまな数学の問題に対応した構造を理解するときには、個々の対象が具体的にどんな集合として定義されたかということよりも、類似の構造を持つほかの数学的対象との関係性の方がしばしば重要になる。この関係性は対象間の写像のうちで「構造を保つ」ようなもの(しばしば準同型と呼ばれる)によって定式化される。このような考え方を扱うために圏論が発達した。集合論の著しい特徴は集合間の写像たちまでが再び集合として実現できることだが、こういった性質を圏論的に定式化することで集合論の圏論化・幾何化ともいうべきトポスの概念がえられる。


ま、マッピングでHTMLと書いたから、集合はXML的であり、オブジェクト指向なんだな。要は、座標が個を固着させない。座標と個に主従関係はない。

y=f(x)において、fは、yとxに君臨するんだなぁ…。
だが、A∪Bにおいて、集合Aの中の元aも、集合Bの中の元bも、∪に君臨されないんだなぁ…。


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余談だが、麻薬で廃業を強いられた元ロシア人力士は、「Xさんから電話がかかってきて」と、告白する。
Xは変数であり、A.B.Cなどの定数ではない。そんなところに、若きロシア人の証言の真実性が見え隠れする。

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さて、写像と集合。マッピングとセットセオリー。何故、現代数学、否、近代数学において、そのようなふたつの概念が必要になったのか。そのことをイメージして欲しい。

数学における数の代わりに、人間・個をイメージしたら、どうなるか…。

社会学においても、マッピングと集合というふたつの概念を導入すると…。

マッピングとは実名。集合とは匿名。


インターネットに対して、既存メディアのエスタブリッシュや、リアルひきこもりさんたちは、「集合論を想定しない古い数学者」にたとえることができる。
私たちネット者は、「集合論を含めた近代数学をやっている」。そして、近代数学がマッピングと集合というふたつの概念でほとんどが語られるように、「匿名と実名というふたつの概念が重要である」と認識する。



算数から数学に変わる。それが、中学一年・一学期の数学である。算数と数学の根本的な違いは、計算実務から学問への止揚である。

そこに、学問として不可欠な集合の概念が抜け落ちたことは、いまの若い人達の認識論におおいに影響しているのかもしれぬ。

否、若い人達だけではない。私の世代よりも上の頑迷な実名論者。彼らも、中学校で「集合論」を勉強していなかった…。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月30日 9時48分

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更新日:2008年11月30日 9時48分

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小説先祖供養_10

宜保さんの話題は、このほかにも、語らなければなるまい…。


 いつの間にか、隣に妻が座っていた。
「いい加減だよな、こんなこと。事前にマネージャーか何かに取材しておけば、全部話を作れるようなことばかりじゃないか」
 レギュラー回答者の高い回答率が、実は事前にスタッフから答えを教えてもらっているからだという噂の立つテレビ業界である。テレビ局は視聴率が取れるためなら、何でもやりかねない。私はそう思っている。
 テレビでは、壬生が演歌歌手に語りかける。
「お父さまはおうどんがお好きだったでしょ」
「はい。特に私が手打ちで作ったうどんにおぼろ昆布を載せたのが好きで、私が作るといつも父はお代わりをしていました」
「お父さまが時々仏壇に好きだったおうどんを供えて欲しいとおっしゃっていますよ。そうすれば、もっとお父さまはあなたのことを守ってくださいますよ」
「はい、わかりました。そうさせていただきます」
 テレビの画面に貰い泣きをしたのだろう、妻の眼は潤んでいた。女性演歌歌手の霊視が終わると、壬生は他のゲストの霊視を次々にこなして行き、九時前に番組は終了した。
 九時になると私は寝室に上がり、お笑い番組を見始める。妻は食事の後片付けを終えると上がってきた。
「ねぇ、私、気になっていることがあるの。ちょっと来て」
 屋根裏の収納スペースから妻が出してきたのは、真鍮でできた大黒様の置物である。
「立派な大黒さんだね」
「お引越しの時に片付けたまま放っておいたの、これは亡くなったお父さんが買ってきて飾っていたんだけど、家を洋式に建て替えたでしょ、だから飾っていなかったの」
「ひょっとして、この大黒さんがさっきの蝶と同じだっていうの?」
「そんなことはないと思うけど、でも、何が原因でどんなことが起こるかなんて、誰にも分からないでしょ」
 物置に仕舞いっぱなしの大黒天の置物が寂しがっているなんて、とてもセンチメンタルなストーリーである。私は幼い時に読んだ鉛の兵隊の話を連想した。
 絶対絶命の危機だった義母が今、なんとか持ち直して病院にいる。だが、いつ、義母の状態が悪化したとしても何の不思議もない。人は寿命とか宿命とか呼んで、人生の長さを納得しようとする。私にとっても死は神秘のベールの向こう側にある。妻のセンチメンタルなストーリーに呆れることもできるが、大黒天を飾ることで起きるデメリットは何もない。ならば、何で躊躇する必要があるのか…。
「それと、もうひとつお母さんが気にしていたことがあるの」
「まだ何かあるの?」
「お母さんは、純之助さんが刈谷の姓になってもらえることをとても喜んでいたの。でも、それって、あなたが三沢の姓を捨てることでもあるわよね」
「ああ」
「お母さんは、あなたが刈谷の家に着たからといって三沢の家の墓参りを疎かにさせるのは申し訳ないって。だから、それは妻である私の務めだから、お金がかかってもいいからしっかりやりなさいって」
「三沢の家ったって、親父もおふくろもまだピンピンしてるよ」
「そうじゃなくって、ご先祖のお墓のこと」

作者:スポンタ

更新日:2008年11月30日 7時50分

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宮崎駿氏とスポンタ、ある少女の共通点。悲しい家族の風景。

先日、世界的アニメ作家・宮崎駿氏のドキュメンタリーをNHKで観た。

彼は、自らの発信のリビドー(満足感)のために創作していない。観客が楽しんでくれなければ、創作の目的は達成されない。と、考えて創作している。そこが、彼が世界的な作家である理由である。僭越だが、私と同じような根っこを抱えていると感じた。



私は、ライブドアPJで叩かれた後、反旗を翻すブログ記事を書いた。その結果、知り合った通信社氏と食事をした。そこで、彼に言われたことを私は終生忘れないだろう。
「君は有名になりたいのか?」
「君は市民記者として記事を書くことで自己実現をしようとしているのではないのか?」
「ブログを書く事で自己実現をようとしているのではないのか?」。
私は、彼の問いを明確に否定することはできなかった。そして、苦い顔をしながら認めることになった。
彼は記事を書く事で収入を得る生活を20年以上続けてきた。その感覚では、私が無報酬で書きつづける動機が見つけられなかったのだろう…。

*

そのときの私は、ライブドアPJから始まる「私の物語」をかいつまんで説明したと思う。だが、それがどこまで彼に理解されたのか。いまとなっては、極めて疑問である。

私が市民記事を書く、ブログを書く理由は明解である。それは以下。

1.世の中に、私が考える視点・解釈が抜け落ちている場合。

2.世の中の多くの人がそう思っているに違いないのに、誰もそれを文書化していない場合。


何故、そのような観点で記事を書くかといえば、それは、「受け手にとって有益である」ことが、私にとって、「情報を発信するかの条件」だからだ。



私は、スポンタというハンドルネームを使っているが、それは、有名になりたいから使っているのではなく、「私」という固有の文脈を検索可能にすることで、読み手の利益に資したいから。そして理想は、無名・匿名であっても、コンテンツの重要さによって、多くの人の目に触れるようになるインターネットの時代がやってくることである。



私は、固有名詞によって価値が上がる情報は「ゴシップ」でしかなく、本質的な価値はない。と、断じている。
有名人が出ているだけで面白くない映画。芸能人の店というだけで、不味い飲食店。人気があるタレントが歌っているだけの下手な歌。

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政党の名前が違うだけで、ほとんど似通った政策なのに、反発ばかりしあう政局。もし、自民党と民主党が匿名で会議をしたら、どんなに政治が分かりやすくなるだろう。そして、匿名で総理大臣を決める投票をしたら、どうなるだろうか。
麻生氏は首相という看板をぶら下げているから、失言という批判に反論しない。日本の医師不足の一因には、日本医師会が医師が増えることで業界利益が毀損するために政治に圧力をかけた歴史がある。そのような過去を無視して、麻生氏を叩くマスコミの悪性…。

もちろん、匿名であることは、彼らの存在価値を毀損するから、行なわれるはずもない。だが、インターネットによって代議制の妥当性・必然性・大義が減じている今、直接民主主義の可能性を信じて、「匿名議壇の誕生」も考えてみていい。

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そういうものがはびこっている日本をなんとかしたいと思う…。その思いを通信社氏に告げたとき、「なんとかしたい」という私の感情が故に発信していることが露見する。だが、そのために発信しているのではない。目的と手段と結果を混同している…。
あくまでも、「受け手の利益のため」。それは、家族的トラウマに原因する。



宮崎氏は、寝たきりになった母親におぶってもらえぬことで、「自分は生まれてきてよかったのだろうか」と悩み、「人を楽しませることができたなら、自分は生きていていい」と思えるようになった。という。

私の場合は、壮年期になって、「私が厳しい躾と思っていたものが、DVだった」と知らされた。そして、断絶。
以来、8年以上両親と逢っていないし、多分、死ぬまで逢うことはないだろう。そういう、「私の物語」・私の心理風景の中で、「受け手の利益」のために発信する。という「私なりの規範」が生み出された。



小学生の頃だろうか。母に、「生まれてこなければ良かった」「どうしてボクを生んだの?」と、きいたことがある。成長した私は、マスコミや作品の中に溢れている、母と子の愛情の物語を聞くにつけ、「なんと私は、こどもとして非情なことをしたのだろう」と、自分を責めたことがある。だが、小学生の私は、私に加えられていた厳しい躾がDVに他ならぬことを無意識に感じていたのだろう。

俵嬢の書いた「サラダ記念日」の短歌は、実はから揚げだったという。作品やマスコミに紡がれている母子の物語も、実は、から揚げをサラダに加工したものかもしれぬ…。



地域で里親のボランティア活動をしている女性と出会った。彼女は、3ヶ月一緒に暮らした中学生の里子が施設に引き取られることになり、切ない思いを告白する。
彼女は言う。「実の親のところに戻るならいいけど、施設に行くなんて…」
私は少女に言う。
「ボクは知らないけど、ご両親とは、いままでいろいろなことがあったんだよね。それなら、きっと親のところに戻る、一緒に暮らすことのほうが辛いはずだよ」。

四十歳を過ぎて親から捨てられた私と、中学生で親から捨てられた少女とでは、悲しみのレベルは違う。だが、彼女も私もきっと、麒麟の田村くんのような幸せものではない。

なぜなら、田村くんの父親は、「解散」と宣言して、解散の理由を全面的に親のせい・自分のせいにした。だが、少女も私も、親から「お前が悪い」と解散の理由をこどもにおしつけられた。

田村くんの話が、「ホームレス中学生」として、売れる理由はそこにある。

「解散」と一家離散の理由はすべて自分のせいにした父親は誠実である。卑怯ではない。

そこに読者は救われるし、田村君が愛情を受けてそだったことを知る。


それぞれの家族の風景。失われた風景である。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月29日 8時15分

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小説先祖供養_09

さてさて…。


「そうですね。よく大切な人が亡くなった時に、形見分けってやりますでしょ。それって、とても重要なことなんですよ。霊感のない方でも、形見を使っていると、その人のことを思い出したり、亡くなった方が自分のことを守ってくれると感じることがありますよね。霊的に見ても、人が大事に使ったものには確かにその人の気持ちが乗り移っているんです。ですから、そうした肩身の品をそんざいに扱うというのは避けたいものですね。この蝶の場合も自分のことを見られるのが恥ずかしいと思ったんでしょう」
 テレビカメラは玄関を後にして、階段を昇っていき、立派なサイドボードの中にある数々のトロフィーや表彰額が飾っているリビングへたどり着いた。テレビカメラは家のいたる所で、壬生の霊視を実証していく。だが、本当にこれで霊視を実証したことになるのだろうか。スタジオには科学者の姿はない。出ているのは、科学とは縁遠い売れっ子のアイドルやクイズ番組の解答席を常連にしているテレビタレントばかりだ。彼らは壬生の言葉を鵜呑みにし、関心ばかりしている。たまに、壬生がタレントたちの守護霊について述べると、身を硬くするばかりだ。
「最後に何か、壬生さんに伺いたいことはありますか?」
 女性アナウンサーは、演歌歌手に尋ねた。
「実は、昨年亡くなった父のことを知りたいんですが…」
 壬生は、ほんの少し宙を眺めたと思うと、親しみの表情を満面に現した。
「お父さんはとてもあなたのことを可愛がっていらっしゃいましたね」
「でも、私が歌手になることで、父にはとても心配をかけてしまいました」
「そうですか。お父さんは今でも、とてもあなたのことが心配だとおっしゃっていますよ」
「ほんとうですか」
「ほら、今もあなたのすぐ後ろに立っていらっしゃいますよ」
 演歌歌手に亡き父が立っている場所を振り返る余裕はない。大きな彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月29日 7時46分

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池田先生の思想的立場。

日本語・英語・アカデミズム・放送界など、池田先生の視野は広い。池田先生の広さと深さに、私はあらためて、驚嘆している。いや、視野の広さや深さでは、彼に凌ぐ人もいるかもしれぬ。先生の素晴らしさ・凄さの本質は、思い・感じたことを、摩擦も恐れずに発言することにある。私は自らを「スポンティニアス(言いたいこといい)」と、自嘲・自負しているが、それは、先生のような立場のある人間の責任ある態度とは違う。ふらふらとしていて、いい加減なものだ。

さて、一昨日・昨日、私は池田先生のブログにトラックバックをした。先生のブログから、私のブログを初めて知った人もいる。池田先生のブログの閲覧者ならば、「インターネットを知りたい」・「現代とは何かを知りたい」と、思っている人に違いない。ならば、私はそういう方々に、先生と私の乖離について述べたい。

今回も、先生のブログを引用する。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/7be4a374f5432aebf0db43e8aaf73a41



先生は、フランスの思想家・レヴィ=ストロースについて愛でている。そして、以下を引用する。

神話の根底にある基本的な二項対立は、ハムレットによって正確に述べられたものだが、彼はそれを楽観的すぎる形で表現した。人は存在するか否かを選ぶことはできないのだ。歴史の本質である精神的な努力によって、人は自明の矛盾した真理を認識し、その根源的な矛盾を解決しようとして限りなく二項対立を作り出してきたが、その矛盾は決して解決できない。

矛盾の一方には、存在という事実がある。日常生活や精神的・感情的な生活、政治的な選択や社会的・自然的な世界、実用的な努力や科学的探究に理由や意味を与えられるのが人だけであることを、彼は深いレベルで知っている。他方には無という事実があり、それは存在の認識と不可分である。人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。

『神話論理』最終巻の「フィナーレ」(未訳)


池田先生は、東大の文化人類学を教官・中根千枝氏と喧嘩して落ちたという。改竄された原稿の出版を許した意気地なしの私とは大きな違い…。そして、彼がこのフランスの学者の文章を愛でているところに、彼の研究領野と明確な立場を、私は感じないではいられない。

スポンタの立場では、この引用文の戸惑いは、仏教における「空(くう)」の概念で容易に解決する。存在でも非存在でもない。それが空。色即是空の「空」である。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経


三蔵法師は、明確に、有・無を超え、空たるべし。と説く。




引用文は、神話というぎりぎりの唯物論のところで踏みとどまっている。けっして不可知領域に踏み出さない。それが私には池田先生の立場と重なって見える。一方の私はといえば、不可知領域を認めつつ、「不可知な領域を不可知のまま、いかに把握できるか」。そのことに腐心している。



私が何故、「小説先祖供養」をネットに連載しているか。その理由は、自分の体験という事実をもってしか、スピリチュアルの真正性・敷衍性を主張できないからである。
その意味で、「小説先祖供養」は、雑密を本密に引き上げるための統合的な作業である。本密であると嘯いてみても、空海のような教養が私にあるはずもなく、「私の物語」に過ぎないから、小説と断っている。



頭脳明晰な池田先生が、何故、仏教における「空」に答えをみいださないのか。私には理解の他である。ならば、それが先生の立場・立ち位置なのだ。

インターネット・現代を、先生と私は異なる二つの岸から見ている…。

閲覧者の皆様には、先生の立場と私の立場。ふたつの立場を対照しなから、インターネットや現代を見ていくことを楽しみにしていただけると嬉しい。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月28日 10時4分

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池田先生。ネット者はそう考えていません。

朝日新聞の赤字化について、池田信夫先生が指摘している。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/fef554c43c88f4187755b441ca784276

では新聞サイトで購読料モデルが成り立つかというと、Economistのような高級紙(誌)かポルノサイト以外は無理だろう。広告モデルも、Facebookでさえ赤字だ。"Groundswell"にも書かれているように、Web2.0は既存企業を補完するビジネスで、それ自体で黒字になることはむずかしい。


これもまた、ネット者にとっては、反論しなければならない論理です。

内容は以下。


コミュニケーションを、情報のデリバリーと考えれば、高級紙かポルノサイトしかビジネスとして成立しない。のかもしれません。しかし、コミュニケーションを、情報のデリバリーではなく、同一コミュニティー内の所属確認作業とするならば、さまざまなメディアが成立する。



コミュニケーションにはふたつのタイプがある。

1. 情報をデリバリーするタイプ。
2. 同じコミュニティーに属していることを確認するタイプ。


私は、公文俊平氏が紹介した、「スマートモブ」の冒頭のシーンを痛烈に批判している。

http://plaza.rakuten.co.jp/sponta/diary/200612040000/

なんと上記は、2006年12月の記事。
それらから紡ぎ出した答えは、「朝日新聞というサヨク・イデオロギーなコミュニティーは少数派になり、その機関紙としての役割は、もはやビジネスとして成立しない」ということに他ならない。

戦後60年を経て、朝日新聞の紡ぐ「反日・自虐な物語」は、国民の多数派にとって受け入れがたいものになった。「反日・自虐な物語」は、戦前・戦争中、非国民と批判された人達のレコンキスタ(失地回復運動)だったのかもしれぬ。たが、彼らの非国民性が痛烈に批判されている。

非国民性を批判することを、彼らは「ウヨク」と呼ぶ。だが、それは「ウヨク」と呼ばれるべきものではなく、凡庸な国民を指す。


ネットウヨクなど存在しない。いるのは、極めて凡庸な・無名な国民である。



書籍の売り上げトップ100を見れば同じようなことが起きていることが分かる。
すごい販売数をカウントしているものに宗教団体が深く関連しているものが多い。
もちろん、布教を目的に一人の信者が複数の冊数を購入するということもあるだろうが、「わたしの物語」としては、教団に所属していることを確認するため。もしくは、所属先に対する忠誠度を示すために、購読されている…。

布教という言葉を使ったが、その語は評判と等価。
「○○教っていいよ」というのと、「朝日新聞っていいよ」というのは同じこと。そして、朝日新聞が紡ぐ、「サヨク的現実認識という物語」が不興をかっているのは、そういうサヨク者の数が減っている。それだけのことでしかない。

サヨク支持者の割合は、社会党+共産党の支持率で類推できるだろう。いまならば、社民党+共産党の支持率ということか。かつて、社会党は第二党だったが、いまは…。



朝日新聞の赤字をもって、既存メディアの暗い未来を印象づけるのは、分かりやすい「物語づくり」である。だが、それは、少数派になったイデオロギーに拘泥し、心中しようとする「頑迷な人達」の末路に過ぎない。

広告代理店の虜・広告主の傀儡になってしまった他紙も同様である。


その一方で、ユーザー第一の紙面づくりで注目される新聞もある。赤い紙のサッカー新聞。…だそうだ。



では、新しい新聞とは何か。新しいメディアとは何か。と、いえば、明確な形がみえている。それが2008年である。

「私の物語」は、そういうこと。池田先生の物語と対照されると、さらにフォーカスされる…。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月27日 10時48分

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小説先祖供養_08

やっと、宜保愛子さんの番組を見るシーンが出てきた。これから物語は、ずんずんスピリチュアルな世界に進んでいく。

 三日経つと義母は集中治療室から一般病室に移ることができた。しかし、酸素吸入用のマスクをしっかり付けていたので、目でお互いを確認することはできても、会話することは難しい。
 入院から四日目、義母はかすれ声ながら、やっと妻に意思を伝えることができるようになった。
 義母の病室で私は妻に、「帰りに病院の前にある牛タン屋に行こう」と話した。病院の前にあるその牛タン屋はいつもたくさんの人で賑わっている。私はその勢いよく出ている煙とその匂いに誘われるが、いつも混んでいてなかなか中に入れない。だが、開店間近かのこの時間なら、今日は中に入れるかもしれぬ。看病でふたりとも疲れも溜まっているから、焼肉でも食って疲れを吹き飛ばそうと思ったのである。その話を横で聞いていた義母は、「看護婦さんに、私も焼く肉を食べに行っていいか聞いてきて」と、妻に頼んだ。
 妻は「まだ、点滴もついているのに、お母さん何言ってるの」と、呆れたが、義母の回復振りに私と付き添いの交代にやってきた義姉の栄子は安堵した。
 結局、牛タン屋は私と妻だけで行き、家についたのは午後八時をまわっていた。私は焼肉の臭いを鎮めようとお茶を飲み、久しぶりに寛いだ気分でテレビのリモコンを操作した。
 日曜日のこの時間、NHKの大河ドラマを観ない人にとっては退屈である。素人を巻き込んだお笑い番組や、子供が大人のメイクをして演歌を歌う奇妙な番組、そして、お決まりの時代劇などが並んでいる。しかし、つまらないからといって、大河ドラマを観ても、途中からでは訳が分からない。私は仕方なくパラパラとチャンネルを回した。すると、壬生明子という霊能者が登場するスペシャル番組をやっていた。このテレビ局は金曜日にスペシャル番組の枠を設けているが、この人気霊能者を利用して視聴率を稼ごうと特番を組んだのだろう。
 人気霊能者を中心にすえたスタジオには、大物女性演歌歌手がゲストとして登場していた。彼女はこの前年に父親を亡くしたことがワイドショーで大きく報じられていた。きっと今回の出演のきっかけも、父親の死と関係があるのかもしれない。
 壬生明子は、スタジオで演歌歌手の霊視を行った。壬生は歌手の自宅の様子を話し始める。
 ヒット曲を何本も飛ばし、年末の音楽賞の常連だった彼女の自宅は豪華そのものである。
「玄関が少し狭くて、風通りがあまりよくないようですね。それから何でしょう。蝶の羽根をたくさん並べて作った額があるのではないですか?」
 壬生の指摘に演歌歌手は頷いた。
「その額にどうも問題があるようですよ」
 歌手の話では、この額は彼女がブラジルに公演に行ったとき、日系人の後援者からお土産に貰ったものだという。彼女は、虹色に輝く蝶の羽根がとても美しかったので、家に来る誰の目にもとまる玄関にその額を飾った。番組の女性アナウンサーが呼びかけると、歌手の自宅前に待機していたレポーターが画面に登場した。テレビカメラが映し出した映像には陽がさんさんと差し込んでいたから、この番組が生放送でないことが分かる。したがって、スタジオでビデオに収録した後に、出来事の順番を入れ替えたり、さまざまな処理をすることも思いのままである。
 路地の奥に見える歌手の家は壁面に茶色のタイルが貼ってあり、家というよりはビルに近い。地価の高い都心部のため、隣の建物との間はほとんどない。
 壬生が指摘した玄関の狭さは、一階に駐車スペースを作るためにそうなったのだろう。玄関を開けてテレビカメラが中に入ってい行くと、虹色に輝いた蝶の額が姿を現した。
「これですね。とても綺麗なものですね」
「はい」
 演歌歌手は怪訝そうに頷いた。
「でも、この蝶蝶は自分のことを余り人に見て欲しくないって言ってますよ。だから、この額はどこかあなただけが見れる大切な場所に置いてあげたほうがいいと思いますよ」
「壬生さん。物にも魂があるんですか?」 
 アナウンサーは問いかける。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月27日 7時40分

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池田先生。それは違います。

池田信夫先生は、「意味づけ」「物語づくり」を批判している。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3de3c4b8b36bf0245bacf46a81f7bc8a

だが、それは、「物語はなかった」という物語づくりであり、「意味はない」という意味づけでしかない。
このようなメディアの桎梏を超えるには、「多様な意味づけ」、「さまざまな物語」を作るほかない。


物語をつくることは悪いことではない。ただ、ひとつの物語でしか語らないことがいけないのだ。

佐々木俊尚氏が教えてくれた「フォークソノミー(民衆的分類)」とは、そういうことだ。



高級官僚OBの殺傷犯は、過去の怨念を晴らしたと自白しているという。だが、それから何を読み取るか。それは、私たちの自由である。過去の愛玩動物に関わる動機が怨念が動機のすべてであり、年金問題はないというのなら、それこそ物語である。

犯人が分からないとき、テレビコメンターである大沢弁護士は、「大義」なる語を出した。犯人の行動は、犯行によって完結しているなら、犯行声明がなくとも、天誅であろう。そして、大沢弁護士が大義を感じた。それがすべてではないか。

高級官僚が属する役所は、自らの非を一切認めず、反省の声明もしていない。ならば、今後も天誅が続くことが予想できる。


そして、その役所以外の殆どの日本人は、彼らの非を認識している。日本という社会は、謝罪しない人・反省しない人には厳しい。そういうコミュニティーである。



思えば、アルカイダ。
アルカイダは、統率された組織ではなく、ひとつの思想・主張の元に集まった群衆だという。個の動機と集団の動機があっていい。レジスタンスとは、そんなものだろう。

たとえば、伊藤博文を暗殺した犯人。
彼は殺人者でしかなかったのかもしれぬが、かの国の人々は祖国解放の革命家にしたてあげた。行動が先で思想が後でもかまわない。さらにいえば、ベルナルド・ベルトリッチの映画「暗殺のオペラ」の主人公のようなこともある。そして、日本にも虎ノ門事件が…。

革命にも、大義的名目と個人的動機とふたつの側面がある。
そのふたつが収斂していく。それが実行に繋がる。

三島の「金閣寺」を読めばいい。

*

複数の物語があるのは当然のこと。逆にいえば、複数の物語が無いほうが不自然である。


現実とは、群盲象を触る。そんなもの。
ひとつの物語で解釈しようというのが、ファシズムなのだ。そして、ヒューマニズムというファシズムこそが一番恐ろしい。

*

そして、一切の物語をつくらぬこと。一切の意味づけをしないことは、アナキズムでしかない。




池田先生のブログにトラックバックした。
トラックバックが承認されれば、多様な物語を先生が許容されたことになる。そうでなければ、池田先生はインターネット的ではない。


先生にお会いしたとき、「君は構造主義的言論を操るね」と仰られた。ま、私が言論を操っているだけかどうか。閲覧者諸氏は判断して欲しい。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月26日 19時19分

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小説先祖供養_07

まだまだこれから…。

 リハビリ病院から退院したものの、義母は毎週一回、病院に診察に行った。そして、退院してから四ヶ月経って、義母が再入院した日も、朝から病院に行って検査を受けに行っていた。その日、義母は午後二時頃、病院から異常なしと診断を受けて帰ってきた。しかし、病院までの道のりと検査は七十三歳の体には重労働だったとみえて、「疲れて気分が悪い」と言って自分の部屋で横になった。その二ヶ月ほど前の五月二十五日にも、彼女は「心臓が苦しいから病院に行く」と言い出したことがあった。
 妻と私は、その晩に入っていたスケジュールを取りやめ、義母を車で病院まで運んだ。精密検査のデータは義母の異常を発見できなかった。
「お母さんはとても神経質な方だから時々こうなるけど、心臓は大丈夫ですよ」
 義母は精神的に落ち込んでしまうと、本当に心臓が苦しくなる厄介な病気である。その症状は苦しいと痛みだけでなく、時に発作を起こす原因ともなる。だから、わがまま病だと決め付けると後で取り返しのつかないことになる。
 検査結果に目を通した担当の医師は、私と妻に病状を語った。彼は義母を担当して二年になり、精神衛生科医であると同時に心臓外科医でもあった。彼は二年間で義母の症状や性格を熟知していた。
「本当に心臓が苦しいのなら、胸を冷やせばおさまります」
 妻はその時の担当医の言葉を思い出し、冷やしたタオルを義母の胸に当てた。
「今度もまた、精神的におかしくなっているから、苦しいだけなんだ」
 だが、冷やしたタオルは効かなかった。午後六時になると、義母がいよいよ苦しみだしたので、妻は病院に電話を入れた。すると、病院の医師は、「今日の検査では何ともなかったのだから、暫く様子を見るように」という返事だった。
 しかし、七時を過ぎても義母は苦しみ、「痛い痛い」と連呼する。
 その晩は丁度来客があったが、その人に事情を説明して帰ってもらい、義母を病院に連れて行った。病院に行く車の中でも、病院についても義母は「痛い痛い」と連呼して、取り乱していた。余りに動くので、点滴の針を入れることもできないし、心電図の電極も振り払われてつけることができない。
「この人は普段から精神的に不安的な人なんですか?」
「はい、すぐ興奮するタチです」妻は即答した。
「そうですか。ああ、べらべらしゃべられたら正確な検査なんかできないよ。静かにしろって言ってもきかないんだから。かといって、鎮静剤も怖くて打てないし」
 救急治療室から出てきた当直の医師は、心臓外科から回ってきたカルテを見ながら、そう妻に確認すると、また部屋に戻っていった。
 暫くすると、救急治療室が静かになった。そして、十五分ほどが経った頃、当直の医師が出てきた。
「最初はカルテの通り、精神的な病気だと思ってたけど、あんまり騒ぐので少量の睡眠薬を打ってて静かにさせて検査したら、どうも本物の心筋梗塞みたいだ。それも、あんまりよくない状態」
 義母に手こずらされた医師は苦笑したが、妻は一転深刻な表情になった。
「お母さんを殺すのに刃物はいらないよ。極端に怒らせたり、悲しませたり、喜ばせたりすれば、それだけでコロっと行くから。何よりも、淡々とした生活が良薬だね」
 二年前、心臓発作で担ぎ込まれた病院の心臓の専門医に言われた言葉を妻は思い出した。
 静かになった義母には、何本もの管が体につけられていた。病院に義母が運ばれ、応急処置と一通りの検査が終わるのに二時間が経過していた。
 一息ついた医師は、廊下の長椅子のところに椅子を持ち出し、義母の病状を私と妻、そして、姉の青木栄子に説明した。
「お母さんの病名は心筋梗塞で、現在危篤状態です。お母さんは心筋梗塞の発作を起こされ、一時的に心臓の血管が詰まり、心臓の一部に血液が回らなくなりました。今は心臓の血管を広げる薬を投与しましたから、心臓全体に血が回るようになりました。とはいえ、発作の時に血が回らなかった部分のダメージと不意脈、そして四十一度の高熱があり、依然として予断を許さない状態です。また、お母さんは持病として糖尿病を持っているので、血管も弱くなっていますし、肺に水が溜まっているのも心配です。峠は、このニ、三日といえるでょう。しかし、危険な状態はひとまず過ぎ、安定した状態になりました。ご家族の方はどなたか一人残ってくだされば、帰って下さって結構です」
 妻は、入院に必要な義母の身の回りのものを家に取りに行かなければならない。その夜は、私が集中治療室の廊下に出ている硬い長椅子に残ることになった。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月25日 22時31分

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対話から生まれるもの:父と娘、英会話喫茶に行く。

この秋、私の娘は英語スピーチコンテストに参加した。結果は惨敗であり、リベンジを期して、もうひとつのスピーチコンテストに参加することにした。スピーチコンテストの本番にそなえて、沢山の人の意見を聞くために、小平市にある英会話喫茶に行った。

http://www.livechat-cafe.com/



私がインターネットで英会話喫茶店の存在を知り、車で30分以上かかる場所に出かける。そして、初対面の人達に事情をつたえると、「みんなの前で練習にスピーチしてみないか」との声があがり、娘は見知らぬ人達に向けてスピーチをした。

できあがった英語のスピーチを喫茶店にいた十数人の大人たちを前に、娘はスピーチをした。
まだ暗記が完璧ではないので、手元に原稿を持ちながらのスピーチだったが、英語を理解する人達は真剣に聞いてくれた。なんとも貴重な体験である。

娘はスピーチを聞いてくれる人達の反応を確かめながら、楽しみながらスピーチをしたという。
スピーチの後には、さまざまな感想がもたらされた。スピーチのテーマや、テーマの背景になった事実のこと。私は、彼女から離れた場所にいるようにしたから、仔細は分からないが、「まるで2~3年外国で生活していたような英語の発音である」とか、「発声が素晴らしい」とか、好意的なコメントが多くあり、私との孤独な練習で落ち込んでいた彼女を勇気付けた。



観客の中に、ハワイから来た留学生がいて、スピーチ原稿の文法的な誤りを指摘してくれた。さらに、彼は修正されたスピーチを朗読してくれた。そのスピーチは、別の人が録音してくれ、今朝、インターネットを経由して、ファイルとして受け取った。

なんとも素晴らしい時代である。
このようなコミュニケーションが、殆ど匿名な関係で行なわれたことを、私は指摘したい。



さて、留学生のトレバー君が朗読してくれたファイルを何度も、娘と繰り返し聞いた。彼の英語はアメリカ英語よりも、英国英語に近い。そして、さまざまな彼によって修正された部分は、なるほど・なっとくであった。そして、彼の朗読そのものも、極めて示唆的であった。



トレバー君の「抑制がきいた英語スピーチ」から私と娘が気がついたことは、何故、前回出場した英語スピーチコンテストが惨敗であったか…。である。

コンテストが終わってから1月も経たない間に、審査員から審査シートが届いた。
ある審査員のコメントには、「観客を引き込みました」とあった。しかし、外人の審査委員長は「オーバージェスチャーだ」という指摘も。だが、別の日本人の審査員は、「グッドジェスチャー」と。これではどの程度ジェスチャーすればいいか決められない。

感想とは別に、数値化した成績もあったが、それは、平均点の少し上。娘の予選突破を望む審査員は一人もいなかった…。



何故、観客を引き込んだにも関わらず、評点が低かったのか。ジェスチャーの評価は日本人と外国人とは違う。では、どうしたらいいのか。印象批評がまかり通っている。英語スピーチコンテストが主観批評によって出来上がっているものであって、勝敗は時の運でしかない。それが私の意見だった。

だが、そうではない。と、今朝、気づいた。
「観客を引き込んだ」にも関わらず、「評点が低い」。その原因は明らかであり、そのことを出演者である娘も演出者である私も気づかなければならなかったのである。

つまりはこうだ。



娘がスピーチにしたテーマは世界が取り組まなければならない深刻な問題(差別と偏見)であった。そのような深刻な問題を扱っているのに、娘の語調は明るく、身振りは大きい。これでは、深刻なテーマを軽重に扱っている。
そのような違和感が、英語を理解する審査員たちにあったに違いない。

英語が分からず、スピーチの内容を理解しなれば、身振りの大きさや声の張りで評価してしまう。それが、観客を引き込んだということだろう。

演技すること自体を評価することもできる。だが、それは猿芝居を評価するようなものでしかない。

それではスピーチを評価するにおいて、軽重である。

たとえてみれば、我が娘は、「ビューティフルサンデー」の田中星次のような口調で、世界の貧困と飢餓についてスピーチしてしまった。これでは、英語を理解しない日本人たちの印象評価は良いとしても、英語を理解する審査員の評点が低いのは当然である。


そのことを知った娘は悪戯っぽく、より明るく軽重なやり方で、惨敗した英語のスピーチをやってみる。
私が指示して行なった本番でのスピーチが如何に醜悪であり、ひとりよがりだったか。私ははずかしくなった。

外人といえば、身振りや表情が大げさだという先入観が、私たち日本人にはある。そのような先入観が外国人審査員たちの嫌悪感を呼んだに違いない。

英語スピーチコンテストの審査というのも、日本人が背伸びをして英語をしゃべる時代から、極めて自然に英語をしゃべる時代になっているのだろう。




惨敗した英語スピーチコンテストの審査評は、短答式のコメントだった。
また、審査の最後に行なわれた審査委員長の理想的なスピーチについての講演でも、テーマと演技・演出の整合性についての指摘はなかった。だから、私たちは、自分達のスピーチの欠点を推察できぬままに、自ら傲慢になり、すべてを審査員たちのせいにしていた。
だが、そうではない。娘のスピーチには、予選を勝ち進むには及ばない、致命的な欠点をかかえていた。

そのことに気づくキッカケを与えてくれたのは、英会話喫茶での対話であった。



見ず知らずの人達、初対面の人達との対話から、自らの気づきがあった。私の気づきに、娘も深く同意する。そして、自らの過去について傲慢であったと反省する。


コミュニケーションとは、なんとすばらしいものなのだろう。



ネイティブチェックと朗読をしてくれたトレバー君。録音して、ファイルを送ってくれた増澤さん。
両氏に深く感謝するとともに、その場に居合わせていただいた大学の英語教員と思しき方ほか、貴重な意見をいただいた皆さんに深く感謝もうしあげます。

ほんとうにありがとうございました。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月24日 11時17分

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mixiのopen IDという末期症状

mixiのopen IDというトレンドは、mixiの運命を象徴しておもしろい。


湯川さんが、mixiがopen IDだという。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/28/news033.html

私は、mixiがopen IDに参加したのは、自殺行為だと思う。否、末期症状だと思う。

いやいや、そうじゃない。
笠原さんは、もともとSNSをやろうなんて思っていなかった。

「SNSなんていう島宇宙」を相手にしたいのではなく、「全宇宙、インターネットそのものを扱いたい」とかねてから思っていたに違いない。



私はすでに、「いまのmixiは鍵で開けて中に入っているが、少し経てば、鍵をあけて外に出るようになる」と指摘している。

今回のopen ID は、mixiがSNSという島宇宙のインフラではなく、インターネット全体の安全インフラとして機能していくことを示している。

*

だが、それが絶対的な安全インフラなのかといえば、暫定的な無菌状態でしかない。それが、ベータバージョンを自認するmixiらしくていい。

open IDも、それが普及していけば、危険因子は混入してくるから、open IDも、時を経て陳腐化する。
ならば、インフラという形で、ユーザーの安全を設計することは、暫定措置でしかない。しかし、暫定措置だからこそ、トレンドが起こり、そこにビジネスが成立する。



湯川さんはmixiを愛で、ソーシャルメディアと喧伝するが、ソーシャルメディアはSNSでしかない。つまりは島宇宙だ。それは、私の思想では「多層なレイヤー」のひとつ。

ソシアルとメディアの定義を探っていけば、それが敷衍の概念ではなく、島宇宙の概念なことに気づくはず…。



mixiのあるべき方向とは、

1. 島宇宙と全宇宙の双方を勘案しながらデザインすること。
2. 島宇宙を孤立させず、交じり合う部分をつくること。
3. 出入りをスムーズに。
4. 透明性に妥当性を持たせること。


そのことを認識していないならば、mixiは、「鍵を開けて中にはいったり」、「鍵を開けて外に出たり」というデザインを数年ごとに繰り返していくに違いない。

勿論、それは、TBSテレビの「水戸黄門」と「大岡越前」のような関係であり、妥当性もある。
ただ、結果として、ゴジラ映画と若大将映画の東宝二本立てのような方向に進んでいくのではないか。
水戸黄門・大岡越前のような選択的ではなく、ゴジラと若大将のような相互補完的なのだ。

水戸黄門のあとに大岡越前を見たいとは思わないが、ゴジラの後に若大将映画は観てもいい。そんな感じだ。

作者:スポンタ

更新日:2008年11月23日 7時24分

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