メニュー

関連ページリンク

トップ > 競技役員活動日記 > 競技役員活動日記 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月8日 4時)

#31 新春雑感

 2009年は1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学の間で最初の大学対抗のフットボール・ゲームが行われてから140年、日本で最初の大学のリーグ戦が始まってから75年になる。アメリカにおいてフットボールはおよそ半世紀単位で発展を遂げてきた。1920年代、ローリング・トゥエンティズと呼ばれるこの時代にカレッジ・フットボールは大きな人気を博し、一方プロにおいては現在のNFLとなる新しいリーグが生まれた。1970年代以降になると、おりからのテレビの普及によりカレッジ、プロともに経済的飛躍をとげ現在に至っている。

 正月休みの間、読むともなくフットボールの資料を広げていた。いろいろと気付いたことがあったのでこれからの掲載に反映して行こうと思っている。特に日本にフットボールを伝えた人たちの多くがYMCAに関係していたことを改めて認識することになった。

 今年もそうしたことを反映しつつこの掲載を続けて行きたいと思っていますのでよろしくお願い致します。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2009年1月7日 8時25分

このブログのホーム

#30 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 2 ―とりかえばやの物語―

20081226.jpg

 この写真は1904年(明治37年)2月6日に撮影されたものである。前回紹介した中村覚之助は最後列真中の学生服、学帽の人物である。この日、日本で初めて日本人チームと外国人チームのゲームが行なわれた。東京高等師範学校とYC&AC(横浜外国人クラブ)の試合である。その記念として撮影された。サッカーに不慣れな日本チームに配慮してYC&ACはファースト・チームではなかったが結果は0対9でYC&ACの圧勝で終った。これに写っている人たちの何人かはちょっとした行き違いからアメリカンフットボールを経験した。もっとも練習にとどまり、ゲームまでには至らなかったようである。

 東京高等師範学校の中村覚之助たちはサッカーに取り組もうとした。それがなぜアメリカンフットボールにつながったかについては1902年(明治35年)12月刊行の高等師範「交友会誌第2号」の記事を要約する。

 この記述によれば高等師範は1896年(明治29年)に「フートボール部」を立ち上げていたが実際の活動は休眠状態が続いていた。1902年、これを呼び覚ましたのが中村覚之助だった。『アッソシエーションフットボール』を翻訳した同年春、アメリカのウィスコンシン大学のフットボール部で「助教」をしていたという「坂上」なる人物からサッカーのつもりで指導を受けた。

 しかしケンカのようにあまりにも激しいスポーツであったので日本人には実行が難しいと思われたためメンバーで検討を行なった。これを改良することも考えたができあがった競技を変更することは難しいと判断した。そのころ『戸外遊戯法』の編集を行なった坪井玄道が海外視察から帰国したので相談したところ、坂上が指導をおこなったのは「ラグビー式」であり、あまりにも過激であるから「アッソシエーション式」の方が日本人に適当である、という答えであった。折りしも坪井玄道がサッカーの資料を持ち帰っていたのでこれに基づき10月の始めより練習を再開した。10月18日の秋季大運動会で2回のゲームを行なった。

 時代の雰囲気を伝えるため原文より引用。基本文字使いなど原文のまま。旧字、旧かなを一部修正。

 「フートボールという遊戯は、・・・(中略)・・・ラグビー流とアッソシエーション流との二派に分かれ、今も、尚(なお)此二流が英国に中々盛んであるとの事。二十年ばかり前に、米国にも此の遊戯が流行し始めたが、米国のは純粋のラグビー式でもなければ、アッソシエーション式でもなく、云(い)はゞ、ラグビ流を骨子として、多少、亜米利加化したものである・・・(中略)・・・
米国のフートボールに付いては、此年の春、合衆国のウィスコンシン大学に遊学して居る坂上某氏が帰朝した時、其(その)大体を聞き得たから、此所に其状況をしるそう。同氏はなかなかの運動家で、特に、此のフートボールは、最も得意であるから、今日では、同大学のフートボールの助教をして居るそうだ。
 ・・・(中略)・・・速早、氏を聘して、三時間計りフートボールの蹴方や、ゲームの仕方などの説明を聞き、夫(そ)れで、充分、会得出来ないから、運動場で実に、其の仕方を示して貰ったのである・・・(中略)・・・坂上氏より教授を受けたのは、即ち、云はゞ、ラクビ式であって、随分、激烈であるから、喧嘩すきは、日本人には、其の儘(まま)、実行することが余程むつかしい」

 #16ですでに1884年に松方幸次郎がラトガーズ大学フットボール部に入部したことは述べた、従って坂上という人物がウィスコンシン大学でフットボールをかなりの程度まで習得していたというのはありえることと思われる。残念ながら姓だけが伝わっていて名は不明である。従って経歴など詳らかではない。また、「助教」という肩書きも元の英語が不明である。推測だが現在のアシスタント・コーチのように思われる。

 以上のように偶然によるアメリカンフットボールとの出会いは幸福ではなかった。「歴史のもし」は繰言にしか過ぎないのだが、このとき高等師範のメンバーがアメリカンフットボールを受け入れていたら日本におけるフットボールの位置づけはかなり変わっていたであろうと思われる。まだ、フォワード・パスがルールに入っていない段階のフットボールは死者を数多く出す競技だった。安全のためもありフォワード・パスを認めるなど大幅なルール改革に着手されるのは1905年からである。それまであと3年だった。

 こうして日本でのアメリカンフットボールの偶然による最初の伝播は少しユーモア含んだほろ苦いエピソードとして終った。

 中村覚之助は教職に就くため清国山東省に渡る。そこで病を得てルールが変わった1906年、世を去った。わずかに29歳であった。

 今年は本欄をお読みいただきありがとうございました。明年掲載第1回は1月7日(水)を予定しております。よいお年をお迎えください。

川口 仁

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年12月26日 1時13分

このブログのホーム

#29 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 1 ―とりかえばやの物語―

 甲子園ボウルに出かけた。予報では午後雨だったが、ときおり思い出したように雨粒を落としただけで泣き出しそうな雲行きのままゲーム・オーバーになった。甲子園ボウルはもう30年来見つづけている。テレビで見たことも含めると40回近くなる。甲子園ボウルの最初のテレビ中継は1956年(昭和31年)だが、このときはまだ子供で、フットボールのことは知る由もない。継続して見るという意味もあったが、ある選手を彼が高校2年生の時から注目していてそのプレーを見るのも、もうひとつの目的だった。スタジアムを出たころ雨がやってきた。3時間近くほぼ同じ姿勢のまま見ていたので固まった身体を解凍するために銭湯に寄った。露天風呂につかり、顔に雨粒を感じながら雨をやり過ごした。それからせがれと軽くビールを飲み帰宅した。

 今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。

 『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。

 まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。

 先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。

『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
20081225.jpg

 『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。

 民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。

 「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。

 ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。

 『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。

※#27参照

 サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。

 中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。

 次回は明日掲載。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年12月25日 11時33分

このブログのホーム

#28 社会人選手権:JXBにいたるまで

 13日(土)、社会人選手権、Japan X Bowlが行われた。結果はすでにご承知のことと思うがパナソニック電工インパルスの勝利に終った。今年10月に社名を変更されたパナソニック電工にとってこれ以上はないタイミングでのパブリシティ力満点の勝利だった。いろいろなメディアで大きく報道された。スポーツ面の紙数が限られている日経新聞でも3段3分の1あまりのスペースが割かれていた。インパルスは堅実なチームである。

1994年度 創部20周年
 社会人選手権優勝 
 日本選手権(ライス・ボウル)優勝 
1995年度 会社設立60周年
 社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
 4度目の社会人選手権優勝
 2度目の日本選手権連覇

 こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。

 社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。

 1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13-6という記録を残している。

 「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。

 戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。

 昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。

 昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。

 昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。

 1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。

 その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。

 ※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年12月17日 10時19分

このブログのホーム

#27 1930年(昭和5年)のフットボール ―父とフットボール―

 生前の父とフットボールの試合を観戦したのは1993年の関学・京大戦が最後になった。振り返って見るとそうであって当時それが最後になるだろうと思っていた訳ではない。1993年11月21日、時ならぬ土砂降りとなった。現在は地球温暖化といわれ、冬にもスコールのような雨が降るがその当時はかなり珍しかった。沛然たる豪雨のために今は取り壊されてなくなった西宮スタジアムの人工芝が冠水し流れができた。観客は大雨をさける鳥たちのように狭い銀傘の下に蝟集(いしゅう)した。後半になって雨が上がりかけたとき東の空に虹がかかった。父が最初に見つけ、試合を忘れて見とれていたことを鮮明に覚えている。

 父は旧制中学のとき授業でフットボールをしたと言っていた。生まれたのは1917年(大正6年)和歌山である。第二次世界大戦の終結する前年であり、ロシア革命が起こった年でもある。日本にはじめてフットボールを紹介する岡部平太がこの年の6月、嘉納治五郎の命によりアメリカ留学に旅立った。

 フットボールをしたというのは1930年(昭和5年)のことである。この年、旧制県立和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学し、1935年(昭和10年)卒業した。旧制の和歌山中学は父の表現によれば「中等野球」すなわち現在の高校野球の強豪校で、昭和のはじめには甲子園の夏の大会で連覇を遂げるなどスポーツも盛んな文武両道の学校だった。当時の和歌山人は和歌山弁で、
「野球、見にいこらよ」
とさそいあって甲子園まで出かけたそうである。昭和のはじめラジオが開局した頃、電気店の前に野球のダイヤモンドを模したボードがしつらえられた。走者が出ると塁と塁の間に切られた溝に沿ってランナーに擬されたマークが棒によって進められ、スコアー・ボードと合わせて見るとゲームの進行が分かるようになっていたということである。この棒の操作をしていたのは父の母、つまり私の祖母である。和歌山市の繁華街でビクターの特約店をしていた。

 父がフットボールをしたことを話したのは1993年前後である。私がフットボールの歴史を書くきっかけとなったのは1995年の阪神大震災だったのでその頃はまだフットボールに対しての歴史意識がなく聞き流してしまった。今、思えばもっと詳しく聞いておくべきであった。父は京都帝国大学でサッカーをし、ラグビー観戦も好きだったのでフットボールと取り違えることはない。そのためフットボールの歴史研究を始めた1998年以来ずっとこのことを実証したいと思っていた。

 2006年、東京転勤中の冬のある休日、吉川太逸先生※にお借りした資料を読んでいたときだった。『第十回全国高校タッチフットボール大会記念号』に「タッチフットボールの思い出」とあり橋本順治という方が下記の文章を書かれていた。橋本氏の肩書きは滋賀県タッチフットボール連盟会長だった。
 「 」内は引用。文字使い、文章は原文のまま。( )内のふりがなを追加。
※吉川先生については#4参照

 「昭和五年頃和歌山の中学校へ体育教員をしていた頃のことですが、当時体育の時間は殆ど徒手体操と器械体操が主でありスポーツの時間は極く少く生徒達は体育の時間をあまり喜ばなかった。殊に服装も体操服でなく上衣をぬぐだけのことで充分なる運動も出来かねた。それと云うのも軍事教練が主であって体育なんてまるでアクセサリー位にしか考えられなかった時代だから止むを得なかった。而(しか)し何とか生徒の気合を高めるスポーツをやらせたいと考えてラグビーをやらせてみたが、グランドが堅く且(か)つスクラムが仲々組めないので何とかいゝ方法はないものかと思っていた時、たまたま映画でアメリカンフットボールを見てこのスクラムを見てこのスクラムをもちいラグビーをモデフィしてやらすと仲々面白く生徒も喜んで且つ危険も少ないようなので冬季スポーツとして体育時間に取り上げたこと思い出し現在のタッチフットボールによく似たものだったと今更(いまさら)なつかしみと親しみを感ずる次第であります」

 思わず座り直すような驚きだった。探していたものだ、と思った。電話番号案内で桐蔭高校の番号を確認し、掛けてみたがすでに個人情報保護法にガードされていて、いかなる情報も得ることができなかった。父の在籍期間の再確認と橋本順治氏の奉職時期を調べたいと思った。父との関係を証明するためには戸籍謄本などが必要だという。父のことは教えてもらえたとしても橋本氏のことは無理であることが分かった。

 東京と和歌山とは離れていて出向くには時間がかかるため、しばらくそのままにしておいたのだが、あるとき思いついて筑波大学に行ってみることにした。やはりまだ東京勤務していたときである。理由は筑波大学の前身である東京高等師範学校のラグビー部のメンバーが1927年(昭和2年)に『アメリカンフットボール』※という本を編纂し、同年6月、本社を越後長岡に置く目黒書店というところから出版していたからである。目黒書店には東京支店があった。この本と高等師範学校のことについては項を改め詳しく書く予定だが、今回必要なことがらは次のことである。
※この本は主として図書館などに現存するが、その数は10冊に満たない。古書店にも出ないため、2004年、古川明さんと復刻版を出版した。

 『アメリカンフットボール』序文より抜粋。
「一、 二ヶ月前東京に於いてかの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真が開封されたので高師のラグビー部員は痛切に刺激され主となって又、始める事に決定し・・・・・」
 
 このくだりを思い出し、直感的に橋本氏は東京高等師範学校の出身ではないかと思ったからである。

 はたしてそうであった。1929年(昭和4年)1月卒業、体育科甲組。甲組は体操を専科としていた。高等師範学校の1931年の記録では勤務先が和歌山中学校となっている。あとは和歌山中学校側での確認のみである。

 1927年、高等師範学校が前記の『アメリカンフットボール』を出版するきっかけとなった映画があった。それが1927年正月明けに封切られた「かの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真」だった。日本語タイトルが『誉(ほまれ)の一蹴』、原題“One minute to play”である。今秋、つい先ごろもグレンージ※をモデルとした少し気恥ずかしい題名『かけひきは、恋のはじまり』、原題“Leather Heads”という映画が公開されていた。
※Harold Edward “Red” Grange 1903~1991
イリノイ大学のスター・ハーフバック。特に1924年のシーズンに大活躍し、鳴り物入りでプロとなる。シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツに在籍。出場したゲームでは6~8万人の当時としての大観衆を集めたという。“Red”は彼の頭髪の色に由来するニックネーム。大学、プロ両方で最初にフットボールの殿堂入りを果たした。フットボールの全期間に渡ってのベスト・チーム・メンバーにも選ばれている。ジム・ソープと並ぶ名プレーヤー。

 1927年『アメリカンフットボール』の出版に先立ってフットボールのゲームが行なわれた。4月30日、旧制成蹊高校グランドおいてである。成蹊高校は三菱財閥の岩崎小弥太が理事長をし、英国流のパブリック・スクールを範としていたので芝生のグランドがあった。高等師範学校であるためアメリカのテキストの通りに行った場合、実際にできるのかどうかのテストを行った。防具も用意された。このゲームに参加したラグビー部員の中に塩崎光蔵という人がいた。橋本順治は塩崎と甲組で同級生だった。塩崎はこの本の翻訳チームにも加わり、のちに筑波大学ラグビー監督※になった。
※厳密に言えば塩崎監督のときは筑波大学という名称ではないが、名称の履歴にそい旧名で表してもイメージがわかない方も多いかと思われるので分かりやすさのため本稿ではこうした。

 『アメリカンフットボール』の復刻を新聞記事にしていただいた。それをご覧になった伊與田康雄氏というかたから出版社を通じて連絡をいただいた。以前筑波大学のラグビー部監督をされていたということであった。連絡いただいた当時は大阪の大学に勤務しラグビー部の監督を引き受けられていたので、お訊ねし話をうかがった。塩崎光蔵氏は大先輩にあたり、塩崎氏は後継者である伊與田氏に自分たちは日本において最初期にアメリカンフットボールのゲームをしたメンバーであることを口伝されたそうである。「塩ジイは」と伊與田氏は切り出された。「私に、君はぼくの後継者だから伝えておきたい。ぼくらはね、岡部さんの後を引き継いで昭和のはじめにアメリカンフットボールをしたんだよ、と言っておられました」

 こうしたことがあったのち休暇で大阪に帰った。母にこの一連の話をしたところ、心あたりがあるのでちょっとまちなさい、と言った。母は父の遺品である本の類をすべて残していた。旧制和歌山中学校卒業生名簿。母が取り出してきたのはそれだった。旧職員の名簿も記載されていた。

 橋本順治、昭和4年11月赴任、昭和6年8月まで在籍。

 母よ、でかした! 息子孝行な人である。こうして欠けていたジグソーパズルの最後のピースが埋まった。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年12月10日 9時28分

このブログのホーム

#26 日本大学のひとびと

 勝者はつかの間の勝利の喜びを感じ、同時にその重さを受け止める。敗者は敗北から学ぶべき長い季節が始まる。2008年度の関西学生アメリカンフットボール・リーグが11月30日に終わった。

 0-57。1955年(昭和30年)11月23日の甲子園球場、関東代表聖学院高校が関学高等部に敗れたスコアーである。この日は先に記したように関西学院大学と日本大学が甲子園ボウルではじめて対戦した日である。第8回の東西高校タッチフットボール王座決定戦は大学の試合に先立ち、同じ甲子園で午前11時半にキックオフされた。保坂侑男は聖学院の選手だった。敗れたあと保坂は大学のゲームを観戦した。第4Q、残り40秒、ゴールまで82ヤード、20-26とリードされ追い詰められた関学は、QB鈴木が乾坤一擲(けんこんいってき)のロング・パスを投げエンドの西村が50ヤード付近でキャッチした。残り50ヤード、あごを上げた特徴のある走り方で西村は保坂の前を駆け抜けて行きタッチダウン、同点とした。保坂は鈴木や西村にあこがれ日大でフットボールを続けようと思った。そして57点差を逆転し、打倒関学を果たす決意をした。チームメイトの吉岡龍一をさそった。二人は日大でQB、RBとして日大の中心選手となり第一期黄金時代を築く。

 保坂侑男さんとお会いした。日本大学の須山さんの次のクォーターバックである。須山さんはアンバランスTの最初のQBであり、保坂さんは後にショットガンとなるショート・パント・フォーメーションの最初のQBである。須山さんが紹介の労をとってくださった。飛田給の駅で待ち合わせた。おふたりの顔は似ていないがたたずまいに共通するものがある。繊細とイナセである。

 日大、篠竹監督は詩作し、シャンソンやロシアの「百万本のバラ」を好んだ。「百万本のバラ」にはフェニックスの真紅がオーバーラップしている。QBにはシャンソンを歌うことを要求しリズムを重視したという。QBがHB(ハーフバック)にハンドオフ、あるいはそのフェイクをするとき一定の距離に渡ってステップをシンクロナイズさせる必要があった。ソシアル・ダンスの息の合ったパートナーに求められる足運びである。

 須山さん、保坂さんとも「なぜ、QBに選ばれたのか分からない」と言われた。保坂さんは足が速かったので入部当初、HBだったがのちにQBにコンバートされた。お二人とも同じ木から彫リ出されたように見える。竹本監督、篠竹監督それぞれが二人に詩(うた)心を感じたのではあるまいか。

 すぐれたスポーツマンは詩人のこころを持っている。ベースボールのイチローしかり、マラソンの君原健二しかり。最近、君原健二著「マラソンの青春」という本を読んだ 筑摩少年文庫というシリーズに収録されている。時事通信社から出版されたものの抜粋であった。うちの奥さんが少年文化館というところのリサイクル本の山から見つけてきてくれた。本を精読した人の軌跡が感じ取れた。体験に根ざしたことばの経済があって、ストレートに心に入ってくる。

 『日本大学アメリカンフットボール部50年史』に詩人の書いた文章があったのでそのまま転載させていただく。以下引用

 その時、関学のQB鈴木智之の指を離れたボールは、私にとってあまりにも印象的な軌跡を残して、疾駆するRE(ライトエンド)西村一朗の頭上へと劇的な弧を描いた。その瞬間甲子園は得も言われぬ静寂に包まれた、たしかその時タイムアップのピストルが鳴ったように思った。あの30年(1955年)に私の日本大学アメリカンフットボール時代が始まったのだと思う。
 此の衝撃的なシーンに遭遇したことが、その数時間前に高校日本一を決める為に、此の同じグランドで関東代表校聖学院の一員として梶主将の率いる関西学院高校と戦って51-0(※1)とコテンパンに敗かされたこと等は既に遠い過去の出来事の様に成って仕舞ったのである。高校卒業の後は芸大の彫刻に進み塑造を勉強することに決めていた此の頃の私にとっては大袈裟に言う様だが、実に重大な数秒間の光景だったと言える。
 一瞬の後、そのほとんどが関学の応援である甲子園のスタンドは昂奮と歓声の坩堝と化していったのは、ごく自然な成り行きだった。その騒ぎの渦の中で私は頭の中が真っ白に成りながら、少し上を向いて顎を突き出して弾む様に一直線に駆け抜けて行く西村の後姿を呆然と見ていた。此の素晴らしい関西学院大学のチームを木端微塵に打ち砕くことが私の目標になったのは此の時だった。私が日本大学アメリカンフットボール部の門を叩いたのはしごく当然の行動だった。・・・(中略)・・・
 篠竹コーチが監督に成られた春。(※2) 
 上級生が誰もいなくなった、しかも日大は関東リーグ四連覇、全日本二連覇中なのである。我々には敗戦という事は有ってはならない。勝利のみが唯一無二の使命なのだ、こんな辛いフットボールは初めてだった。横山主将を中心に他の四年生と悩み、模索した。その結果この不器用な我々に出来ることは、己のベストを尽くして足が摺りきれるまで走って走りまくることだという結論に至った。決して私的には仲の良い気の合った4年生が揃っていた訳では無いが、それからの一年間お互いに競い合い体をぶつけ合って同一の目標に向かって走り続けたと思う。
 肝心の横山主将がリーグ戦に入ると早々に入院してしまった。然しもうその時には日大は奔流の様に一つの方向をめざして猛り狂う様に走り始めていた。
 横山主将がギブスを付けたまま関学の梶主将にぶつかって行った、我々は関学を倒した。
 翌日はうららかな良い気持ちの朝だった、甲翠荘(※3)の庭で目を閉じて顔を空に向け温かい初冬の陽光をいっぱいに浴びながら、色々なことを思い出して居た。ふと「あッ俺はもうパスディフェンスのことは考えなくて良いのだ。」と気付いた時に全ては終わったのだなと思った。そして、ついにあの31年度の関西学院大学のチームとは相対することは出来なかったのだと思った時、一抹の淋しさが残った。(※4)

「日本大学アメリカンフットボール部50年史」より第一期黄金時代、吉岡龍一氏の書かれたものより抜粋。文字使いなど原文のまま。

※1 吉岡さんの記憶違いで実際は57-0
※2 篠竹氏が監督になったのは1954年(昭和34年)
※3 甲子園球場の近くの旅館
※4 昭和31年度、関学、鈴木氏、西村氏は最終学年であった吉岡さんは昭和31年1年生のため対戦機会がなかったと思われる

保坂さん、吉岡さんが在学時代の関学‐日大の対戦成績
1956年(昭和31年)関学33-0日大
1957年(昭和32年)関学14-6日大
1958年(昭和33年)関学12-13日大
1959年(昭和34年)関学0-42日大

吉岡さんは2008年5月他界された。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年12月3日 9時18分

このブログのホーム

#25 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 5

 日本へ帰還後、なぜ虜囚になったかを考えた。竹本さんは基本を合理的に考える人であったので「自分は法に暗かったからだ」と気づき、日本大学法学部に入りなおした。1950年(昭和25年)コーチとなり、卒業し、米軍に就職したのちもコーチを続け、1957年監督を任された。1956年までの日大は1949年から4年連続最下位と低迷を続けていた。4ヵ年計画を建て、日本大学の系列校を中心にまず大規模なリクルートから始めた。この年、80数名の新入部員があった。しかし、フットボール経験者は都立西高の笹田英次さんのみだった。サンデー・コーチであった竹本さんはプレイブックや指示メモによってコーチングを行った。ちょうど「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプ※がニュー・ヘブンの時計会社の勤めがあるため、かわりに練習を見てきた奥さんのレポートに基づきエール大学をコーチしたことと似ている。笹田さんがリーダーシップをとるようになってからは良い相談役となり竹本さんの意図を咀嚼してからメンバーに伝えるようになった。
※#2 site seeing 米田満先生参照

 優れた新人が入部した。先回までに紹介したエンド、篠竹幹夫。3、4人からタックルを受けても倒れず、必ず3、4ヤードゲインする大型ハーフ・バック小島(おじま)秀一。小島は山形県の新庄北高校出身で体が大きかったためキャンパスを歩いているところをリクルートされた。夏場はサッカー、相撲を行い、冬はノルディックで国体に出場したアスリートだった。ノルディックの距離競技の習性で走り方はすり足だったが、鍛えぬかれた足腰の強さを発揮しタックルされても数人を跳ね飛ばして進んだ。

 関西遠征し連戦して実力を蓄えた。甲子園ボウルの覇者関学との対戦は時期尚早とみる者が多かったが竹本監督は押し切った。立教との対戦が望ましかったが、当時はリーグ戦での対戦校にプレシーズンで挑むというのは常識の範囲外であったからである。関学は基礎がしっかりしており、スカウティングにすぐれている、というのが竹本監督の関学評だった。

 代々木八幡駅に近い初台の民家を借りて合宿所にしたのは1953年だった。生活をともにすることでチームワークが高まった。

 新しい攻撃フォーメーションの創造に力を注いだ。それまでのシングル・ウイング、Tフォーメーションの長短を比較した。

 ① シングル・ウイングは展開が遅い
 ② Tフォーメーションはスピードを活かせる
 ③ アンバランス・ラインは相手がとまどう

 得た結論がアンバランスTフォーメーションだった。

 1954年(昭和29年)、少ない部費の中から16ミリカメラが購入された。2万5千円だった。同年の公務員の初任給は8千7百円である。マネージャーが対戦チームをスカウティングした。マネージャーの役割が重んじられていた。チームの主要メンバーがそう考えたからである。1955年、リーグ初優勝を事実上決定した立教戦の朝、主務の米原達朗は選手達の激しく高まった戦意を感じた。昂ぶりをこぼすことなく神宮競技場の控え室にそのまま持ち込みたいと考えた。もし、電車で移動したら外気のためにその熱気が消えうせることを危惧したからである。マネージャー全員にタクシーを拾いに走らせた。1、2軍を燃え立つまま神宮に送り込むことに成功した。監督に説明している時間を惜しんだ。相談したのは笹田と篠竹の2人だけで米原の独断に近かった。結果は大方の予想に反して日大の勝利になった。このあと残る法政戦に勝ち、駒を進めた甲子園ボウルが引き分けに終ったことはすでに述べた。

 甲子園ボウルでは同じ極点まで到達した両チームに勝利の女神も決断をためらった。

 チームの中心を担った4人は三国志の「桃園の誓い」のようにつどった。 卒業後、笹田は審判、篠竹はコーチ、小島は協会を担当して理事、米原はマネージャー指導、とおのおの役割を担ってそれぞれがやり遂げた。

 2度目のインタビューのあと竹本さんは生田の駅まで送ってくださった。手を差し出され握手をして別れた。握手している竹本さんのうしろにハワイの雲ひとつない青空が広がっていた。青空の悲しみが一瞬通り過ぎて、竹本さんが「サヨナラ」と言った。

 翌年のヨコハマ・ボウルで竹本さんと米田先生は数十年後の再会をされた。雑誌『タッチダウン』が二人並ばれた記念写真を撮ってくれた。それから短い時が流れ、横浜スタジアムにつきそってこられていたお嬢さんから竹本さんの訃報が届いた。

20081126.gif
竹本さんの描いたアンバランスT

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年11月26日 5時52分

このブログのホーム

#24 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 4

 “BASIC”と竹本さんは何度もおっしゃった。外部には日大では何も教えないという話がある。しかし笹田さん※は「竹本さんからベイシックを教えられた。それは身につくと忘れてしまうものだからね」と言われた。
※竹本さん、笹田さんについては前回#23を参照。

 小脳運動。自転車に乗る、泳ぐ、歯を磨く、こうした行動の情報は小脳に保存されている。身体の自動的な運動を意識して行うことには困難をともなう。竹本さんは“BASIC”が小脳に蓄積されるまで練習を徹底された。練習中足を止めない、低さを維持する、スピードをつける・・・。パス練習はクォーターバックが目隠しして行なわれた。1955年は竹本さんの4年計画の仕上げの年だった。その猛練習振りは伝説化しており、以後の日大フットボールの原点となった。笹田さんをはじめとする1952年に入学した学年は鍛え上げられ4年生になっていた。

 丹生さんの「関学の話」#58「完敗」、1991年8月号掲載からの引用。
 「頭の中が真っ白になる―――という表現がある。・・・・・(中略)・・・・・。昭和30年(1955年)5月24日の火曜日、西宮球技場で日大に6-18と敗れたときの関学がそれだった。・・・・・(中略)・・・・・敗因は明白だった。ラインが押し負け、当たり負けたのがすべてだった。日大のブロックは低く粘り強かった。一人一人が自らの役割に忠実だった。前年と変わらぬ戦いぶりだった、と言ってしまえばそれまでだが、この年はもっと力が付き、もっと徹底していた」

 竹本君三さんは1920年(大正9年)、3月24日ハワイ、マウイ島生まれの二世である。2つのパスポートを持ち、時差がある日本では25日生まれになる。この年岡部平太により日本で最初にフットボールが紹介された。竹本さんにお会いしたのは2004年の3月、小田急線生田駅近くのDenny'sだった。ご両親は移民が多い広島の出身で日本語学校の先生をされていた。結婚後1880年(明治23年)頃に布哇(ハワイ)に渡られた。竹本さんは5男2女、7人兄弟の末弟である。マウイでは日本人は肩を寄せるように村落のなかで集まって生活していた。犯罪の少ない土地柄だった。西海岸の日系人移民の人たちも法に従い重犯罪を犯すものはほとんどいなかった。地元の8年制の小学校に通い、4年制のマウイ・ハイスクールを卒業した。島に高校は2つだけだった。小学校、ハイスクールでバレーボールをし、バスケットボールにも触れた。タッチフットボールはハイスクールのチームでプレーした。時にはタックル・フットボールも行った。ハイスクールを終了するとお父さんが「日本に行きなさい」と言った。当時は円安で日系移民の人たちは師弟を日本に留学させることが多かった。

 「Buddhismのhouseがあって、そこに入りました」と竹本さんは話された。1939年(昭和14年)、ホノルルから立田丸という船に乗り10日後に横浜に着いた。竹本さんの「Buddhismのhouse」はソーシャル・ハウスと呼ばれ本願寺教団が運営していた。アメリカからの留学生を受け入れるとともに日本からの移民の手助けを行った。移民が多かった県は浄土宗がさかんであったところが多いと言われている。ソーシャル・ハウスは寄宿舎のような施設で、異なる大学の留学生が一緒に生活していた。共同生活での学生間の交流により東京の大学にフットボール・チームができて行った。最初に明治大学、次に早稲田大学にチームができた。これに立教大学を加え1943年(昭和9年)ポール・ラッシュ博士が東京学生アメリカンフットボール連盟を結成したあと、翌1935年、関東で慶応大学、法政大学が、関西で関西大学が創部した。1938年に関大アメリカンフットボール部の創部者、松葉徳三郎の協力の下、東西合同の日本米式蹴球協会が結成された。松葉は関西支部長となり関大に続く関西のチームの創部を応援団ルートを通じて働きかけた。そうした活動の中で1940年、同志社大学アメリカンフットボール部が誕生した。翌1941年、戦前最後の創部が関西学院大学で行われた。日本大学は同志社と同じ年、1940年に部をスタートさせた。

 竹本さんは来日した1940年日本大学の拓殖農業科に入学した。ハワイで日本語学校に通ったが日本語の負担の少ない学科を選んだ。同時に帰米後の仕事を考えてのことであった。明治時代の日本からアメリカへの留学生も同じ理由から大学の農学、酪農に進むものが多くいた。また創部まもない日本大学アメリカンフットボール部に入部した。ポジションはフル・バックとハーフ・バック、パスも投じた。

 1940年、日本協会は秋のリーグ戦に先立って競技名を「米式蹴球」から「鎧球」とした。悪化する日米関係を配慮しての措置であった。初代監督は明治大学ラグビー部出身の笠原恒彦だった。ラグビーの名選手であり映画俳優だった。リーグに参加したばかりの日大だったが、初年度は33名と部員も多く健闘して法政、立教と引き分け、5位になった。翌年は同率ながら2位タイと躍進した。

 しかし開戦後まもなく戦況が悪化し、卒業が繰り上げになった。1942年、徴兵され広島で検査を受け入隊した。陸軍の憲兵隊であった。配属地はニューギニアだった。語学力をかわれて通訳をした。ケイ・キチールというインドネシア語で「ちいさい島」という意味をもつ土地が駐屯地だった。そのうちマレー語、オランダ語もできるようになった。敗戦にともない捕囚の身となった。収容所で必要にかられインドネシア語もマスターし、通訳をした。収容生活は戦後も続き、釈放されて帰国したときは1948年になっていた。兄が日系人で編成されアメリカの部隊のなかでもっとも勇敢で一番死傷率の高かった442連隊※に志願し奇跡的に生還していたことを帰国後知った。
※442連隊:第2次大戦中、日系人のみで編成されたアメリカの部隊。日本とアメリカが交戦国となったためアメリカ在住の日系人は強制収容された。二世たちはジレンマの状況下で志願し、442連隊に入隊した。ヨーロッパ戦線に配属され、221人を救出するため800人の死傷者を数えるというような多大の犠牲をはらい、同朋のため、そして名誉と誇りをかけ勇敢に戦った。最強の部隊とよばれその累積死傷率は314%といわれている。

20081119.jpg
1941年の日大チーム。前列中央#28は竹本さん

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年11月19日 0時12分

このブログのホーム

#23 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 3

 11月9日は朝から冷え込んでいた。早朝、刷くほどのかすかな霧雨が通り過ぎた。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会の関西地区準決勝2試合が王子スタジアムで行われるので出かけた。阪急神戸線で、王子スタジアムの一駅手前、六甲で降りる。先日、古書店に頼んでおいた矢内正一著、『一隅の教育』を受け取るためである。その前にコンビニで神戸新聞を買う。古川明さん※の自伝、「わが心の自叙伝」の掲載が9日の日曜日から神戸新聞で始まったからである。来年にかけ30回に渡って連載されるという。古川さんのイニシャルは、A.F.つまりアメリカンフットボールである。終戦後のタッチフットボール伝来以来、フットボールとともに歩んでこられたので自叙伝は戦後の日本のフットボール史そのものの貴重な記録である。
※ #3 高校フットボールとNOBLE STUBBORNNESS参照

 前回の小笠原秀宣さんからお聞きした話を続ける前に少し長くなるが紹介しておきたいことがある。#6「ダックのセカンド・ネームは」で登場いただいた丹生恭治さんが雑誌『タッチダウン』に1984年から1993年にかけて10年間書き続けられた「フットボール夜話―関学の話」という連載についてである。このシリーズは丹生さんが関西学院中学部1年生から大学4年生まで学院に在籍された10年間のことを同じ10年をかけられ綴られたものである。2006年のDVD『FIGHT ON, KWANSEI』制作のとき、チームのOBの人たちはよく「ファイターズのDNA」ということばを使った。「フットボール夜話―関学の話」を今回読み返してみるとこの連載はまさにDNAそのものを記したものであることを改めて認識することになった。

 今回須山さんとお会いした目的のひとつは丹生さんが「関学の話」の中で、須山さんから聞き漏らされたと書かれているお話を聞くことにあった。大学卒業後丹生さんが現役の記者時代、国立競技場で須山さんにインタビューされた。その内容を「関学の話」の以下に書かれた。
#51「日大との出会い」、1990年9月号掲載、
#58「完敗」、1991年8月号掲載、

①須山さんが最初のゲームでプレーをしたかどうか?
(このゲームは1954年9月6日に行われ、25対7で関学の勝利。関学と日大が最初に出会ったゲームである)
②関学を破ったことは日大および関東の大学でどう受け止められたか?
(このゲームは1955年5月24日、6対18で関学が敗れた)
の2点が確認されていないことがらの主たるものであった。

①について
 須山さんはスターターではなかったがゲームの大半、クォーターバッキングをされた。タッチダウンのプレーは須山さんのときであった。
②について
 関学にとってはいささか肩透かしの感があるのだが、日大に甲子園ボウル連覇の覇者に勝ったという多少の感慨はあったにせよ、激戦の関東学生リーグ、特に王者立教を倒して優勝しなければならないため、勝利を評価している余裕がなかった、というのが実情であった。また当時の情報伝達力には限界があり日大の勝利は、それまで関東4連覇中の常勝立教には伝わらなかった。リーグ戦前の関東の新聞各紙予想は立教の5連覇を確実視していた。事実、日大はリーグ第3戦の慶応と引き分け、この時点でメディアの中には立教の5連覇を信じ、そう報じたものもあった。つまり日大はリーグ戦中盤になっても慶応に次ぐダークホースの位置にあった。しかしこのあと大方の予想に反し、リーグ第4戦で立教を破る。最終ゲームの法政戦を残してはいたが、法政の戦力からみて日大の勝利確実という見通しが立って始めて日大優勝の可能性濃しという記事が書かれた。

 須山さんは日大一高のフットボール部のご出身である。1952年から監督になられた竹本君三さんが日本大学の系列高校にフットボール部を創ることを考えられ、最初に創部されたのが日大一高であった。指導に来校したのはのちに日大の監督になる大学1年生の篠竹幹夫さん※だった。日大一高においてタッチフットボールは後発の部であった。そのためスペースがなくコンクリート張りの場所で練習しなければならず、満足なタックル練習もできない状態であった。結果として試合はずっと無得点で敗れた。その中から須山さんはライスボウルの高校関東選抜に選ばれているのでいかに抜きん出たプレーヤーであったか想像は容易である。ぬかるんだグランドでもバランスを崩さない足腰の強さは定評だった。かつてプロ野球の西鉄ライオンズに怪童と呼ばれた中西太という巨躯(きょく)のスラッガーがいた。中西は腕っ節も足腰も強く雨でゆるんだ軟弱なグランドでも沈むことなく楽々と走塁できた。須山さんの話をOBの方からうかがったおり中西太のことを連想した。おそらく生来の素質に加え代々お祭りの御輿をかついでこられたことでさらに強化されたのであろう。
※ #4 長浜 滋賀県のフットボール その1 参照

 小笠原さんの話によれば、日大はかなり早くから練習や試合中に水を補給しいたことがのちに分かったそうである。日大のゲーム終盤になっても衰えないフィットネスはこうしたことによっても支えられていた。以下カッコ内は「関学の話」、#51「日大との出会い」からの引用。
 
 「昭和29年(1954年)9月6日※――。関学が日大と初めて出会ったのは、この日である。・・・(中略)・・・ さて、その次の日。西宮球技場に日大を迎えた私たちは、予想もしない大苦戦を強いられた。秋のシーズン開幕第1戦ということで、張り切ってはいたのだが、相手に対する認識がいささか欠落していた。それに合宿の疲れが抜け切っていなかったし、真夏同然の猛暑もあって疲労困憊のゲームだったことが、昨日のことのように思い出される。暑さとか合宿明けという点では、日大も同じ条件だった。それだけに肌で感じた相手のタフネスさ加減には、心底不気味さを覚えたことも白状しておく」
※東西学生リーグとも当時は早くて9月末ないしは10月になってリーグ戦が始まったので、こうした9月上旬のプレ・シーズン・ゲームを組むことができた。

 小笠原さんは1965年(昭和40年)のご卒業である。この頃でもまだ日本のスポーツ界では水を飲むことはタブー視されていた。コンディショニングのため、あるいは安全確保のために水を補給するということが一般化するのにはまだ数年を要した。1970年前後にゲータレードという商品名に代表されるアメリカの機能性飲料が紹介されようやく知識が広がり始めた。小笠原さんによれば甲子園ボウルで対戦する日大は後半になっても動きが落ちず、最終局面になって突き放されたという。

 このゲームのとき日大2年生で、のちにキャプテンを務められた笹田英次さんに日大がいつから水の補給をされ始めたかをお聞きした。笹田さんのお答えは1954年(昭和29年)、つまりこのゲームの年からである。監督であった竹本君三さんは日比谷のアメリカ文化センター※に通い“Athletic Journal”などを研究され、最新のフットボール情報を得ておられた。昭和20年代、すでに水分を補給することの有用性を知り、実行されたと考えられる。竹本監督はアンバランスTというフォーメーションを考案されるなど創意工夫に富んだ方であった。
※GHQ(連合軍最高司令官総司令部)のCIE(民間情報教育局)は日本全国に23のCIE図書館を設置した。主要都道府県の中央図書館を接収し、アメリカ文化の浸透を計るための政策を実施した。1952年に米国防省に移管され13のアメリカ文化センターとなった。そののち1972年にアメリカン・センターの名で再編成され、札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の6ヶ所にしぼり込まれた。アメリカの雑誌、本などが豊富に備えられており一般にも公開された。したがって長くアメリカ情報の窓口として利用された。筆者も学生時代に利用したことがあるが現在はどうであろうか。

20081113athleticjournal.jpg
写真は“Athletic Journal”のフットボールに関する記事を集めた本

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年11月13日 1時5分

このブログのホーム

#22 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 2

 11月1日はフットボール日和だった。西京極陸上競技場へ関学のゲームを見に行った。1時頃着くとバック・スタンドは、ほぼいっぱいになっていた。最近関学サイドのスタンドは満杯状態が多い。例えば王子スタジアムのバック・スタンドでは収容し切れなくなっている。いつも一緒に観戦させていただく方々がざっと見渡しても見つからなかった。少し上段の席を捜したが空いていないように見えた。しばらくして席に荷物を置かれていた方が空けてくださった。その方にお話を聞くと第一試合から来ておられたとのこと。今日は朝から所用があって家を出るのが遅くなった。

 第一試合が終って少ししたところで携帯に「フットボールの神様」から電話が入った。大藤 努さんだった。大藤さんは前回書いた1955年(昭和30年)、第10回甲子園ボウルの関学のエース・ランナーだった方である。ファイターズの65周年DVD製作の時、米田豊さん※からのご紹介でたいへんお世話になった。DVDに出てくるフォーメーションは大藤さんが私の取材ノートに書かれたものをそのまま掲載したものである。
※ #5 米田 豊さんインタビュー参照

 すぐに電話を替わられた。出てこられたのは木谷 直行さんだった。木谷さんは大藤さんと同級生で4年生のときはキャプテン、第10回大会のときも実質的なチーム・リーダーであった方である。学業では一番、卒業生総代、スポーツにおいては甲子園ボウル3勝1分け、1分けは両校優勝なので都合4回優勝され、文武両道の人として半ば伝説化した方である。昨日、取材をさせていただいた。超一流の大企業に就職され要職に就かれながら、ファイターズの監督もされた。ラグビーにおける宿沢広朗氏と似たキャリアである。監督のときも現役時代と同様に甲子園では不敗であり、強運の持ち主である。また、チームマネージメントにおいてもすぐれた手腕を発揮された。ファイターズが個人商店ではなく企業のように運営されているのも木谷さんをはじめとする方々のリベラルな考え方によっている。

 木谷さんとは昨日お会いし、インタビューをさせていただいた。お話は理路整然としていて、こちらの意図を理解された上で話を展開されるので、ほとんどの時間、記録に専念できた。脱帽である。昨日お願いした資料のコピーをもってきたのでこちらへ来ませんか、というお誘いであった。木谷さん、大藤さんが座っておられるまわりは大先輩ばかりである。大藤さんの慫慂(しょうよう)でお二人の間に座らせていただくことになった。ゲームの経過とともにお二人が一言、二言、ぽつんと言われることがすべてポイントをついている。関西学院の中学部からフットボールをされ、その後も長く見守ってこられたので当然といえば当然なのだが、根底に非情に暖かいものがあってこんなに気分よくフットボールを観戦したのは初めてであった。

 大藤さんは現役当時、常にラッキー・ボーイと呼ばれた方である。鋭い勘をお持ちなのと観察眼が優れておられるので、人より何歩も先のことが見えているようである。その走りっぷりは現役時代、カニ走りと呼ばれ真横にカットが切れたらしい。この話は木谷さんからお聞きした。過去にそのような走り方ができたのは私の記憶の中ではただひとりである。現在、ファイターズのコーチ、小野宏さんである。西宮球技場でサイドラインから反対のサイドラインまで真横に瞬間移動したように見えたプレーが鮮烈な記憶として残っている。実際にはそうしたことは物理的にはないのだが、その魔法のようなシーンは今も目に焼き付いている。

 第3Q、7分を過ぎたあたりで、相手チームのパントになった。大藤さんが「パント・ブロック」といわれた。次の瞬間それが本当に起こった。第4Qが始まってすぐの頃、「QB、つぶせ」と大藤さんが叫ばれた。相手チームのQBが軽自動車がダンプカーと正面衝突したかのように関学のディフェンス・ラインに大きく吹き飛ばされ、その手から弾けるようにボールがバック・フィールドに転がり出た。ボールを追っているのは白いジャージの大きなラインである。#51が器用にボールを拾い上げると40ヤード、5秒5くらいのスピードでゴール・ラインに向かって走り出した。まわりを白いジャージがガードし相手の追跡を阻んでいる。そのまま60ヤードあまりを追いつかれることなくTD。先ほど関西学生アメリカンフットボール連盟のホームページで記録を確かめたら64ヤードだった。川島君にとっては初めてのTDではないだろうか。ディフェンス・ラインがタッチ・ダウンした距離としては新記録かも知れない。

 帰途、米田さんにお渡しするものがあって、ファイターズのグッズを売っているテントの前で待っていた。勝利は販促に最大の効果があるようで、テントの間口がすぐに人でいっぱいになりグッズが次々に売れた。

 米田さんとはそこでお別れしたが、帰路もフットボールの神様と同行させていただくことになった。今度はフットボールの神様が以前から顔なじみの小笠原秀宣さんになられた。西京極から十三駅まで40分ほどかかるのだが話がはずみ瞬く間に時間がすぎた。その間、小笠原さんから日本大学の科学性についてお聞きすることになるとは家を出るときまったく予想もしなかったことである。このことは次回に。

20081102book.jpg
木谷さんが高校生時代、勉強された“Functional Football”という英語の本。滋賀県立旧制彦根中学(現在、彦根東高校)のタッチフットボール部の方もこの本で学ばれた。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年11月2日 22時10分

このブログのホーム

#21 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 1

 日本大学が初めて甲子園ボウルに出場した時、クォーター・バックを務められた須山匡(ただし)さんにお話を聞かせていただいた。日本大学が最初に甲子園に登場したのは、1955年(昭和30年)である。葛飾柴又のお生まれなので、渥美清演じる車寅次郎の「帝釈天で産湯を使い」の世界におられる。3代以上続いた正真正銘のイナセな江戸っ子である。八代将軍徳川吉宗から拝領したという由緒のある地名と同じ名を持つ「お花茶屋」という駅が約束の場所だった。私と同じ大学の大先輩に旧日本海軍のファンで待ち合わせには必ず15分前に来られる方がある。私の父は海軍の将校だった。生前、海軍はそうだったという話を聞いていた。その大先輩と世代が近い方なので20分前に約束の場所に行ったらすでに待っておられた。大恐縮である。おまけに風呂敷一荷分の資料をもってきていだいている。アルバム、書籍と見当をつけて重さを推測すると10キロは優に越えていそうである。

 須山さんは1935年のお生まれだがぜい肉がなく背筋が伸び、フットボールのスタイルをすれば今でもそのままクォーター・バックの位置につけそうなたたずまいである。普段から江戸下町で町会、地域の世話をされ、祭礼などで年中忙しくされているので若々しく、こんな風に年を重ねられたら良いだろうな、という羨望を抱かせられた。重そうな荷なのでお持ちします、と申しあげたがお断りになり、あたかもサイドラインからスクリメージへ向かうようにさりげなく歩かれる。

 準備おさおさ怠りない方で、駅から近い公民館の会議室を予約されていた。お話をうかがうにはこれ以上の場所はないという静かな環境だった。職員の方が須山さんに気遣われる様子から常日頃、高い地域貢献をされているのが推察できた。

 大学のフットボールは卒業があるので、ベスト・チーム同士が合間見える機会は少ない。日本大学と関西学院大学も甲子園ボウルで昨年までに25回対戦しているが双方が最強だと思われる時に巡り合わせるということは少なかった。

 話題がそれるがNFLフィルムズはときどき面白い企画をする。記憶によっているので正確ではないかもしれないが、例えば1970年代に最強であったピッツバーグ・スティーラーズと1980年代に王朝を築いたサンフランシスコ・フォーティーナイナーズが対戦するという架空のゲームを過去のフィルムを合成編集して作ってしまったりする。日大と関学でいうならば互いに甲子園ボウル5連覇時の最強チーム同士が対戦したらどちらが勝つだろうかといったことになるであろうか。

 1955年(昭和30年)、この両校の甲子園ボウル初対戦のとき、最初にしてそれが実現した。日大は1952年(昭和27年)より4年計画でチーム強化をしてきた最終年であり、関学は中学部よりフットボールを続けてきた選手たちが大学生になりすでに甲子園ボウル2連覇という結果を残していた。そのメンバー全員が残り3連覇をめざし、さらにレベルアップしていた。この両チームが対戦することになった。当時の新聞の戦前評を見ると力は「五分と五分」と書かれている。

 2年前ファイターズの65周年のDVDを製作したときこのゲームを取り上げた。完成までの時間が限られていた。DVDなので映像がいるのだがテレビ中継が始まる前年なのでもちろんビデオなど残っているはずもない。当時映画館でよく上映されたニュース・フィルムにも当たったがそれも見つけることができなかった。動きが欲しかったので架空のラジオ実況放送のかたちにした。入手できた写真は7枚。試合の経過のあらましは新聞などに残っていたのでシナリオを書いた。スポーツ実況放送の草分けであり名スポーツ・アナウンサーと言われたNHKの「志村正順」調が望ましいと思っていた。ナレーションを担当していただいた読売テレビの牧野誠三アナウンサーは初見でそれを理解され、あたかも目の前のゲームを見ているかのように台本を活かしてくださった。牧野さんは1990年代、関学・京大戦をはじめとする学生フットボールのアナウンスを長くされた方である。

 この試合は展開を追っても選手個々の能力から考えても、甲子園ボウル史上に残る好ゲームだった。第4クォーター残り40秒、20対26、関学は6点のビハインド、攻撃は自陣18ヤードから。そこから同点に追いつき、事実がフィクションを越えた。前回書いた昭和20年代前半と異なり新聞はページ数を回復しつつあった。フットボールも写真入りで掲載されている。当時の新聞を読むとそれだけで背が熱くなる。

 ずっとこのゲームの日大のクォーター・バック、須山さんは当時1年生だったと誤解していた。やはり日大には怪物のようなアスリートがいると思った。連想したのは1980年代、同様に1年生からスターターを務めた松岡秀樹さんのことである。4年生の時はリーディング・ラッシャーでリーディング・パサーだった。3年生くらいのころ、秋季リーグ戦で脚を捻挫し、ゲーム前、平服の時は脚を引きずっているのを見かけていた。ところがスタイルをしてゲームが始まるとトップ・スピードで縦横に走るのを見て衝撃を受けた。その当時はテーピングが今ほど発達していたのかどうか定かではないが想像を越えた領域にそのプレーはあった。

 最近1953年度のライス・ボウル(1954年1月1日)のメンバー表を見ていて誤解していることに気づいた。ライス・ボウルと同日に行なわれた選抜の高校東西対抗戦のメンバーに須山さんが選出されていたからである。従って1955年11月23日の甲子園ボウル時点では2年生である。誤解がとけても、すごいという印象は減ずることはなかった。一度直接ご本人にお話をうかがいたい、と思ったのはそうした理由からである。ファイターズOB会のご協力でお会いできる運びとなった。
⇒#8「関学と日大」参照

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年10月21日 21時35分

このブログのホーム

#20 取材ノートから ① ―北稜中学校タッチフットボール部、最後の一人―

 昨秋から、一刀(いっとう)康弘さんと言う方と大阪市立北稜中学校のタッチフットボール部の歴史を調べている。ことのはじまりは関西学院中学部が、北稜中学と1951年(昭和26年)11月6日に行なったゲームにさかのぼる※。一刀さんは北稜中学の三期生であり、同時にタッチフットボール部においても三期生になられる。北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された。この時期は学制の新制度と旧制度の切り替え期間にあたっており、学年構成が以上書いた通りには単純ではない。それについては後述したい。
※以下の段落にいたるまでの経緯については#6を参照いただきたい

 一刀さんはご自分の前後の学年の連絡先が分かっている元タッチフットボール部員の方々や同窓会幹事に問い合わされ、先日その成果をレポートにまとめられた。当初はこちらがインタビューをさせていただいていたのだが、立場を代えて調べるほうにまわられ立派な記録にされた。幸いなことに北稜中学はタッチフットボール部ができた翌々年の1950年度(昭和25年)には卒業アルバムが製作されていた。クラスごとの写真に加え、スポーツと文化の部は部員の集合写真が掲載されている。しかし調査を始められた当初、昨今の個人情報保護法の壁にはばまれ、卒業アルバムを再閲覧することも峻拒(しゅんきょ)され大幅な回り道をされた。

 1950年前後は社会全体は貧しかったが、北稜中学タッチフットボール部の活動そのものは当時としては総じて恵まれていたと考えてよいと思われる。のちに述べるが北稜中学は実質的に大阪市立北第一中学としてスタートした。したがって最初にできた新制中学として物心両面で優遇されたと考えられる。第二次大戦後半から戦後にかけての長い期間は、物資が不足し新聞、雑誌などの用紙調達もままならない時代だった。1946年から1950年に当たる期間の大学フットボールのクォーター・スコアを調べるため、当時の新聞のマイクロ・フィルムを回したことがある。少なくともこの5年間はタブロイド版サイズで建てページ数がほぼ2ページか多くて4ページに限られ、よほどの大事件があったり、正月紙面となった場合にのみやっと増ページされるという状態であった。スポーツは紙面のほんの片隅で野球か相撲がわずかに扱われる程度だった。したがって学校の卒業アルバムも先立つ用紙がなくその時期はまず製作することが困難であった。関西学院大学ファイターズのDVDを制作した時、#18で触れたように学院史編纂室の池田さんにフットボール部が創部された1941年から戦後にかけての卒業アルバムを見せていただいたが1945年前後の数年間はアルバムそのものが存在しなかった。明治時代以降の新聞、出版など印刷物の歴史において定期の刊行物の発行が途切れたのは関東大震災後の数ヶ月のみである。

 前述したように現在の時勢から生ずる情報開示拒否という障害はあったにせよ、一刀さんは当時の方々の同窓会をいくつもまわられたり、部員だった方の情報を丹念にたどられ、写真と照らし合わせ順次姓名の確認を続けられた。人為的なさまざまな障害を克服し、地道な努力を積み重ねられた結果、少しずついろいろなことが解明されてきた。部員だった方の消息が一人また一人と分かるたびに一刀さんよりご紹介にあずかり、ともにその方にお会いしインタビューをさせていただいた。多くの新発見があった一方、あらたな矛盾や不明なことが多々でてきた。

 例えば最初に書いた「北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された」というくだりは最初「1947年創立」になっていた。一刀さんが、再確認されたところ次のようなことが分かった。

 1947年4月
 大阪市立「北第一中学校」創立。新制の中学1年生が入学。

 1948年4月
 大阪市立「北第二中学校」創立。
 「北第一中学校」の2年生になった生徒は「北第一中学校」とこの新設なった「北第二中学校」の2校に振り分けられた。従って北第二中学は前年北第一中学に入学し、この年北第二中学に振り分けられた新2年生と4月入学の新1年生の2学年で構成された。この2年生の内、10数名が2学期になってからタッチフットボールを経験した。
         
 1949年4月
 「北第二中学校」は「北稜中学校」と校名を改称。
 一刀さんはこの年入学された。
 
 戦後の新制と旧制の学制切り替えが完了する1950年(昭和25年)まで、こうした複雑なできごとが日本全国で起こった。したがって

 北稜中学の一期生は、
 1年生のとき「北第一中学」に入学し「北第一中学」生として過ごし、
 2年生は「北第二中学」生になり、
 3年生は「北稜中学」生となり「北稜中学」第一期生として卒業したことになる。

 この間、校舎の仮住まい、移転なども加わり複雑なマトリックスが描かれる。そのために練習グランドも変わるということが起こるのだが、今回の記事で扱うには紙幅が足りないのでこの件はこの程度に留めたい。

 なお、北稜中学の1949年度(1950年卒業者、つまり第一期生)のアルバムは製作されていないが、幸運にも一刀さんがこの時期のタッチフットボール部員の集合写真を持っておられたので部の活動期間四年分の写真が全てそろった。しかし、インタビューさせていただいた方々のご記憶によれば写真に写っていない部員もいるようである。現時点で写真に残された4年間40数人の部員ほぼ全員のお名前が分かったが、おひとり名前の分からない方がおられる。ただ、まだすべての可能性が検証されているわけではないのでそれもいずれ判明すると思われる。

 「関西アメリカンフットボール史」の制作を契機としてこれまでフットボールにおけるさまざまな「なぜ?」を調べてきた。1947年(昭和22年)からの10数年間あまりの間にタッチフットボールを行なった新制中学校の名前を関西だけで20校あまり数えあげることができる。しかしそれ以後大阪などの地域では砂漠の砂の中に川が消えるように急激に活動を停止する。新制中学におけるタッチフットボールは長らく兵庫県の関西学院中学部、滋賀県長浜市立長浜西中学校、長浜南中学校といった数校のみが昭和20年代よりその活動を継続してきた。ここ数年タッチフットボールをする中学校が少しずつ増えてきているが、新制中学におけるタッチフットボールの消長も多くの「なぜ」のひとつである。しかし、これについては一刀さんのような強力な協力者を得て徐々に回答に必要な資料が集まりつつある。

 最後に以前の記事について一刀さんの名誉のためにひとこと付け加えたい。#6で1951年11月6日に北稜中学と関学中学部で行なわれた試合について書いた。最初に北稜がタッチダウンをあげたことを記し、経過にふれず最終スコアーのみを付け加えたので初得点のあとは北稜がワンサイドに押され、逆転負けをしたような印象を残すような文章となった。一刀さんの記憶によれば、

 「ハーフタイムに関学中学部のメンバーがコーチからかなりハッパをかけられていたことを覚えています。したがって前半は北稜がリードしていたと思う」

 とのことなのでこの機会にそのことを書き残しておきたい。もし異なる事実をご記憶されているか、あるいは当時の記録をお持ちの方があればご一報いただければ幸いである。

《物語の断片》
 1951年、11月の晩秋に向かうある日、晴れ上がっていたか曇っていたか定かではない。少なくとも雨ではなかった。北稜中学タッチフットボール部の部員たちは試合のため元海軍将校だった桑原徳勝先生に引率され関西学院中学部のある上ヶ原をめざした。十三駅と西宮北口駅の間で阪急電車が脱線したのではないかというくらい大きく振動して走行したことが試合にも増してこの日のもっとも印象深い思い出だった。電車は無事到着しゲームは行なわれたが、その経過については漠漠(ばくばく)たる記憶のかなたにある。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年10月14日 0時30分

このブログのホーム

#19 フットボール伝来記 4 -焼失した日記-

 #17の最後でふれたフットボールの大学対抗戦を初めて行ったラトガーズ大学に明治時代の前半期、なぜ多くの日本人留学生が在学していたかに話を転じたい。グイド・フルベッキという人物がいた。オランダに生まれ、ユトレヒトの工業学校で機械工学を学んだ。のちに22歳でアメリカに渡り、実業についていたがコレラにかかり死に瀕する重体となる。しかし、奇跡的な回復を遂げ一命をとりとめた。その結果、以後の人生を神に仕える決心をし、オーバン神学校に入学、卒業後オランダ改革派教会から派遣されて中国に渡った。フルベッキは語学の才があり英語、ドイツ語にも堪能であった。

 前回のマギル大学がスコットランド系の人々が創立したように、オランダ人がアメリカで創設した大学がラトガーズ大学である。教派はオランダ改革派だった。ヨーロッパから移民してきた信仰に篤い人々にとって大切なのは教会であり、教会を司る牧師であった。したがって牧師を養成するために神学校を建てた。アメリカにおける初期の大学は神学校であった。ハーバード、ウィリアム・アンド・マリー、エール、ペンシルバニア、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ダートマス。ラトガーズも1776年のアメリカ独立宣言までに開校した9つの大学のひとつである。オランダ改革派教会は宣教活動に熱心であった。フルベッキも上海経由で1859年、長崎の出島に来航した。まだ禁教令のため布教を行うことができなかったが、幕府の英語伝習所、済美館で英学※を講じた。済美館には海外の情報を必要としていた各藩から選び抜かれた俊英が国内留学してきていた。のちに早稲田大学を開く大隈重信もここで学んでいる。従って明治初期に留学した人々がフルベッキの仲立ちでラトガーズに向かったことは自然なことであった。

 下の写真は1871年のラトガーズにおける日本人留学生たちである。
20081001_01.jpg

 留学生たちの名前は判明しており、1869年の最初のゲームを観戦した日本人がいるかどうか、留学生の日記を渉猟(しょうりょう)した。その結果、記録を残している可能性がある日下部太郎という学生にたどりついた。幕末に四賢候と呼ばれた藩主の一人である福井藩の松平春嶽じきじきの命で長崎に国内留学をし、済美館でフルベッキの教えを受け、ラトガーズに留学した。

 1866年に幕府が海外渡航の禁を解いた翌年の1867年1月、日下部は日本人留学生第一号として、開国後4番目に発行されたパスポートをもちアメリカ留学へと出立する。長崎より南下してジャワに至り、そこで1ヶ月半の間アメリカ行きの便船を待った。この頃は定期の船がなかったからである。インド洋、喜望峰を経て大西洋を北上し、150日近くかけてニューヨークに到着した。当時は蒸気船と帆船が併用されていた期間であった。蒸気船であれば早く着くことができたが乗船料が高価であったので、日数がかかるが安価な帆船を利用することが多かったという。要した日数から考えて日下部は帆船に乗ったと考えられる。昭和の初めにはこれが40日程度に短縮されている。

 日下部は日本での英語学習がわずか一年あまりにすぎなかったが初年度の1867年、大学1年生となる。当時の留学生は、勉学に必要な語学力習得のため、まずグラーマー・スクールに入学するのが常であった。おそらく日下部には天才的な語学の才があったものと考えられる。日下部の学部は科学部であった。現存する当時のノートには大砲の弾道計算などが残っている。帰国後は軍に勤務し砲兵隊の指揮をとることを目指していたという。数式を主に扱うので文科系に比べ言葉の障壁が少ないとはいえ異例なことであった。当初は藩費での留学であったが、最終学年の3年目には明治政府より海外留学生と認められ年間600ドルの支給をうけている。だが当時は送金方法も確立されておらず、常に経済的な苦労がついてまわった。アメリカ東部の物価は高く、10数年後の1884年に同じラトガーズ大学に留学した松方幸次郎※も首相、松方正義の子弟であったにもかかわらず常に逼迫した経済状況にあった。これは明治時代に留学した人々に共通の困苦であった。
※ 松方幸次郎については#16を参照。

 しかし日下部は乏しい留学費の中から3年間の在学中に200冊の書物を購入している。現代と異なり書籍は非情に高価な時代であった。夏目漱石が1900年代初頭、ロンドンに留学したがやはり安い下宿を求めて5回の転居をし節約した金で400冊の本を買ったことを連想させる。漱石は年間1800円の官費支給を受けていた。これも「やむをえざる西欧の受容」だった。日下部太郎も夏目漱石もけなげにまで自らの使命を果たそうとした。

 当時の大学は3学年。ラトガーズ大学は人文学部と科学部の2学部のみであった。人文学部は70人程度、科学部は10人前後、したがって総数約80名のちいさな大学だった。プリンストン大学戦に出場したのは25人であるので差し引くと55名となる。観客はおおよそ100名と記録されている。状況から類推すると試合前から初の大学対抗ということで学内の大きな話題になっていたと思われる。試合後に発行された学内新聞の”The Targum”※ にこのゲームのことについて詳しい記事が掲載された。日下部の指導教官であったウィリアム・グリフィスはフットボールを行っていたと言われている。したがって日本人がこのゲームを観戦していた可能性はかなり高いのではないだろうかと考えている。
 下の写真は1870年4月19日に撮影されたラトガーズに留学していた日本人留学生たちである。
 ※ 試合があった1869年の1月に創刊。試合は同年の11月6日、土曜日。
20081001_02.jpg

 ただし日下部はこの写真の中にはいない。写真が撮られる6日前、4月13日に他界していたからである。骨身を削って勉学に打ち込んだ日下部は常に首席であった。そして学問を含め日常のあれこれについて克明な日記をつけていた。冬には極寒となる東部アメリカの生活環境は物心両面にわたって厳しく、卒業を目前にして結核に倒れ、最初に大学対抗のフットボール・ゲームが行われた約5ヵ月後、1870年4月13日に息を引き取っている。大学は日下部の優秀さを高く評価し、愛惜の念を込めて卒業生とした。さらに成績優秀者の集まりであるΦΒΚ(ファイ・ベータ・カッパ)※のメンバーにも加えた。またそのメンバーに贈られる黄金の鍵を授与している。日下部の葬儀の日、大学は全学休講して弔意を表した。日下部太郎は特別に優秀な成績を収め、人格の高潔さを持って周りに深い感化を与えた。一証左としてその名が新渡戸稲造の「武士道」の序文にも取り上げられていることを記しておく。
 ※ 哲学は人生の導き手、というギリシャ語の頭文字

 日下部の日記は蔵書その他の遺品とともに故国、福井の八木家(日下部の旧姓)に持ち帰られた。しかし、明治9年10月4日、八木家に火事があり、そのおりに他の家財とともに火につつまれ、日本人が最初のゲームを見たかどうかを証明できたかもしれない重要な文書は灰燼(かいじん)に帰した。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年10月1日 3時48分

このブログのホーム

#18 フットボール伝来記 3 ―焼失した日記―

 蒸気機関、ガス灯、反射望遠鏡、道路舗装、切手、万年筆、グランドピアノ、自転車、タイヤ、石油精製、近代銀行、モールス信号、スピードメーター、レインコート、冷蔵庫、電話、ガスマスク、レーダー、救命胴衣、クロロホルム麻酔、ペニシリン、テレビ、ビデオ・レコーダー、これらに共通するものは?

 答は、発明したのはみんなスコットランド人、である。スコットランド人は産業革命を推進する多くのものを創り出した。エジソンの父も、エジソンの一番弟子の父親もスコットランド人であった。

 前回の記事に出てくるマクギル大学はJames McGillより遺贈された4万ポンドを基金として創立された大学である。McGillはスコットランドで事業を行ったのちカナダに移住、毛皮取引で成功おさめた。バスケットボールを考案したジェイムズ・ネイスミスもスコットランド系であり、マクギル大学を卒業した。記事を読まれた関西学院の方からマクギル大学のMcGillは「マギル」と表記しますとのご指摘をいただいた。学院の文書はそれで統一されているので今後は「マギル」と表記したいと思う。

 今回、ラトガーズ大学を取り上げる予定だったが、変更してマギル大学のことを書きたいと思う。灯台下暗しなのでご指摘のあった方にお願いしたら、たくさんの資料をお送りいただいた。関西学院はマギルと学生交換協定をしているという。母校のことなのだが知らずにいた。またスクール・モットーの“Mastery for Service”は学院の4代目院長であったC.J.L.ベーツが高等学部長時代に提唱し、その後、学院全体のものになったという。これはマギル大学マクドナルド・カレッジのモットーと同じであることも教えていただいた。この間のことを調べられておられる学院史編纂室の池田裕子さんが「関西学院史紀要」第6号(2001年4月20日)に「カナダ訪問記」と題して書かれており、目下他の資料も含めて勉強中である。池田さんにはFIGHTERSの65周年DVDを制作する時、たいへんお世話になった。

 アメリカは最初の大学対抗のゲームが行われた1869年に大陸横断鉄道が開通したように鉄道の時代に入っていた。1874年、マギル大学はハーバード大学とお互いが採用しているルールで交互にフットボールの試合を行った。当時はアメリカ国内においても大学ごとにルールが異なり、交流戦を行うときはまずルールの交渉からになった。このときはまず最初にハーバード・ルールでゲームを行い、翌日にマギル・ルールでゲームを実施した。スコットランドはラグビーが盛んであったのでマギル大学もラグビー・ルールであった。これがアメリカにおいてラグビー・ルールで行われた最初のゲームになった。マギル大学のあるモントリオールとハーバードのボストン間の距離はおよそ400km。鉄道で移動したと推測するのだが、おそらく10時間以上かかったのではないだろうか。時代は大きく下るが終戦後の甲子園ボウルで来阪する関東の大学は10時間以上をかけての遠征であったらしい。1950年に、「特急つばめ」がダイヤ改正により東京―大阪間を8時間で走るようになった。19世紀のサッカーの発展も鉄道の沿線沿いに進んで行った。アメリカでも鉄道会社の社員で構成されるチームが本格的なプロ・チーム出現以前にあったという。

 名前に関する余談をしたいと思う。外国人の日本語表記は難しい。McGillは「マギル」だが、おなじみのMcDonaldは「マクドナルド」であるし、かつてのアメリカの航空機製造会社、McDonnell Douglas社は、「マクダネル」であった。何か法則性があるのかも知れない。

 #15でも発音が分からないと書いたHeffelfingerのような一見しても想像がつけられないスペルがある。NFLのひいきチーム、セインツに1990年代前半、Bobby HebertというQBがいた。最近プレイオフに出るまでになったが、当時は弱小チームだったのでテレビの放送に取り上げられることがめったになかった。したがって、エースQBなのだが雑誌のスペルを見てもセカンド・ネームの発音が分からなかった。プロ・フットボールのテレビ解説をしている専門家に聞いたところ「ヘバート」と教えられた。のちにセインツのゲーム・ビデオが手に入って耳をこらして聞くと、何度聞き返しても「エーベァ」だった。セインツはニュー・オーリンズがフランチャイズなのでHebertもフランス系の可能性が高い。フランス語においては最初の“H”は発音されないので「エーベァ」なのであろうと思っているが、いかがであろうか。

 さらに余談を加えると、日本人の名前はもっと手ごわく、「纐纈」という苗字は13通りの読み方がある。こうした同じ漢字で多数の読み方を持つものが日本の名前には多く、ご本人に聞いて見なければ分からないということが往々にしてある。読み方が異なっても同一の字であれば1つの名前として数えると日本の苗字は10万あるそうである。これに「斉藤」の「斉」のように「斎」を初めとして同音異字なども数え上げると30万近くになるといわれているが、個人情報保護法もあり今後はさらに調査が困難になるので、正確なことは分からないようである。アメリカは世界各国から移民してきているので約100万に上るという。

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年9月25日 9時5分

このブログのホーム

#17 フットボール伝来記 2 ―焼失した日記―

 1869年11月6日にラトガーズ大学とプリンストン大学の間でフットボール初の大学対抗戦が行われたことは以前に書かせていただいた※。前回の#16で予告したようにこのときの観客について考えて見たい。ゲームが行われた際、約100人の観客がいたといわれている。この年のはじめ、ラトガーズ大学では学内新聞が創刊された。したがって試合経過やこうした周辺情報を読むことができるが、日本人がその観客の中にいたかどうかについては既読の資料には残されていない。
※#1およびDVD“FIGHT ON KWANSEI”参照

 これまで数年このゲームを日本人が見た可能性について調べてきた。きっかけは次のことを偶然から知ったためである。

 なにげないと思われた経験がのちになってみると大きな歴史を体験していたということがある。1891年12月21日、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールの体育館、そこに一人の日本人がいた。名前は石川源三郎。ジェームス・ネイスミスによって創案されたバスケットボールの最初のゲームが行われ、石川はこれにプレーヤーとして参加した。青少年が冬季に室内で行うことができるゴール型スポーツとして考え出された新しい競技にはこの時点でまだ名前がなかった。ゴールには桃の収穫用のカゴを用い、サッカーボールを使用したので、のちに「バスケットボール」と名づけられた。ジェームス・ネイスミスはカナダのマギル大学※の出身である。マギル大学は遠征しハーバード大学とラグビー・ルールによるフットボール・ゲームを行い、アメリカンフットボールの展開に大きな役割を果たした大学である。ネイスミスはまたバスケットボールを考案するにあたりアメリカンフットボールの考え方もモチーフのひとつとした。ただ石川はバスケットボールを日本に広めることはなかった。バスケットボールはフットボールに関係する方の血縁者により別の機会、別のルートでわが国に紹介されたが今回それはテーマではない。
※#14参照

 近代スポーツの各競技はそれぞれ時期を異にして日本にもたらされた。フットボールは1934年(昭和9年)12月、関東で明治大学、早稲田大学、立教大学の3大学のリーグ戦開始をもって日本ではスタートしたとされている。

 各競技が伝来したきっかけは大別して2つになる。明治政府が大学を頂点とする高等教育制度の短期整備のために雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」など欧米人によってもたらされたもの。いわば舶載の貨物についた「こぼれ種」のようにして伝播した。もう一つは欧米留学や視察により海外に出た日本人が持ち帰ったものである。前者の例としてはベースボールがある。後者の例はハンドボールを挙げることができる。フットボールは強いて分ければ前者になる。ベースボールは1872年(明治5年)、当時の開成学校(のち旧制第一高等学校)で英語などの教鞭をとったホーレス・ウィルソンが生徒にベースボールを手ほどきしたのが最初と言われていたが、現在は諸説がある。ハンドボールは1922年(大正11年)、欧米へのスポーツ留学経験のある東京高等師範学校出身の大谷武一がドイツより帰国後紹介した。また大谷は昭和初期ラジオ体操を考案し、第二次大戦終了後まもなく、文部省の学習指導要領に基づきタッチフットボールのテキスト作成を行った。

 「やむをえざる西欧文化の受容」が明治以降、日本近代化の過程であった。冬の霧深い陰鬱なロンドンで夏目漱石も懊悩したように避けがたい現実だった。漢籍に明るかった漱石はむしろ北京留学を望んでいたという。1854年(安政元年)、吉田寅次郎、すなわち松陰が小船を漕ぎ出しアメリカへの密航を計ったことからも推測できるが、この欧米留学という切実たる思いを共有した江戸人は少なくなかった。それから10年後の1864年さらに勇敢なる人物が無謀とも思える単独行でボストンに至る。鮭は産卵のために母川(ぼせん)の急流を遡上するとき、最初に大いなる段差を超えるものが出ると連なってこれを克服していく。このパイオニアが同志社大学を創始した新島襄であった。函館からまず上海に渡り、アメリカに行く船を捜した。幕府が海外渡航禁止を解くのは1866年なので捕縛されれば死罪を覚悟の行動であった。新島の翌年、1865年には薩摩藩が英国に15人の留学生を送り出すなど、幕府にはこの近代化という大きな潮流を押さえる力はすでになかった。

 新島はアメリカ行きの船捜しの間も、上海で漢訳の聖書を入手するなど勉学を怠ることがなかった。この勇敢無比な新島の魂を理解する船長、ホーレス・テイラーが現れ、インド洋、大西洋を経て西回り航路で無事ボストンに着く。乗船した船の名前は“WILD ROVER”。のちに同志社大学アメリカンフットボール部のニックネームとなる。付け加えるならば、新島は1870年(明治3年)日本人ではじめて学士号を得た。またのちに来日し、札幌農学校の教頭となり明治の日本に大きな精神的な影響を与える、ウィリアム・クラークにアマースト大学で講義を受けた。先に述べたように滞米中の1866年に国禁が解かれたので、新島の留学は追認され、その高い人格と深い学識が新政府に重用されることになる。

 新島襄に遅れること数年、同様の時期にラトガーズ大学に留学した日本人が幕末から明治初期にかけて数百人におよんだ。現在では日本人にあまりなじみのないラトガーズという大学になぜ多くの日本人が留学したかについて考えてみたい。

(この項続く)

作者:日本アメリカンフットボール史

更新日:2008年9月15日 22時8分

このブログのホーム